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虚構に現実が浸潤する~太宰、京アニ、薄暮、新海~

太宰治「人間失格」補論

初めからフルパワーで参ります。昨日書き殴った投稿の補論と、そして新たな問題提起へ繋げます。

昨日、「センチメンタルを討つ~太宰治「人間失格」を読んで~」という投稿をしました。あまり出来に納得はしていないのですが渾身の投稿でした。が、残念ながらイマイチ読んでくださる方が少ないようです。悲しい感じですよ。

その投稿を要約すると、「人間失格」は薄皮一枚ナルシシズムの皮を残したため人間の深淵に到っていない駄作であると書きました。太宰ファンはたくさんいらっしゃると思いますから、少し煽り気味だったかもしれませんね。

しかし、それにしても「人間失格」は人気がある作品です。それはその通りで、昨日の投稿も「なんか逆張りしちゃったのかな感」や「オレ理論感」がプンプン臭ってきます。ち、ちゃんと人気があるという分析を前置きしないからこういうことに…!!ダメなやつ…!!

ということで補論です。しかしただの補論ではありません。太宰治「人間失格」の人気の理由を分析し、結果として本論のテーマへと接続していきたい所存なのです。

さて、それでは本題です。なぜ「人間失格」は人気なのか。ぼくの考えでは、二つ理由があります。

一つは、「人間失格」後のセンセーショナルな太宰の死が、作品と著者の境界を取り払いワイドショー的な興味を本作品において満たしたことでしょう。これはとても分かりやすいですね。

そもそも心中は近松門左衛門の昔から衆目を集めていました。センチメンタルが刺激されますし、現代まで続くワイドショー文化の根底にある野次馬根性の起源と言えるのではないでしょうか。

少し揶揄して書きましたが、それの全てが唾棄すべきものだとはもちろん思いません。むしろこの虚構と現実がないまぜになる想像力こそ、本論のテーマに繋がる大事なキーワードです。

ですが、とりあえずここでは人気の理由の二つめを記述しておきます。それは「癒し」です。

ぼくは、「人間失格」はとてもキレイにまとめられた作品だという読後感を得ました。主人公の葉蔵は、ナルシシズムの薄皮をめくられることなく、悲劇のヒーローを最後まで演じ切ります。

しかし、よく考えたら、葉蔵は自分の堕落を他人の責任に転嫁したり、結局兄弟に助けてもらっていたりします。彼はまだ自身のプライドを守っているし、周囲の人々からも見放されたわけではないのです。これでは本当に悲劇のヒーローだったかどうかは疑問が残ります。

つまり、とても安全な堕ち方をしているだけなのです。おそらくこの作風はこういう人に受容されました。

いつも肥大した自意識と被害妄想を抱えているが、それに向き合う強さもなければ、強くなろうとする努力もしたくない。厭世的でいつかカッコよく、またはプライドを保ったまま悲劇のヒーローを気取りたい。

このような人にとって「人間失格」は癒されたのです。最後までカッコよく、しかしちゃんと堕ちた感じもします。辛辣に書きましたが、もちろんぼく自身も上記の人間に分類されます。人間はそう簡単に強くなれませんし、強くなれないことに罪の意識を持っていたりするものです。だからこそ葉蔵のような堕ち方に「癒される」のです。

しかし、残念ながら「癒し」は文学ではありません。文学や芸術の尊さは、このセカイの見え方をいっぺんに変えてしまう強度があることです。「癒し」はその反対で、「今のままでいいんだよ。」と頭を撫でながら囁きかけてくれるものでしかありません。それは文学ではなく、エンタメでしょう。

ただ、近年ではこのようなものが「文学」であると誤解されて、中村文則や某お笑い芸人が小説を書いて芥川賞を受賞したりしています。というかこの作風で芥川賞受賞できるなら太宰は貰えたはずですよね。歴史の皮肉というかなんというか。

さて、気がつけばだいぶ辛口になっていました。むしろこの辺で読むことをやめてしまった方も多いのではと危惧しております。

補論はこれで終わりです。ちゃんと仕切り直して、本論のテーマに入りたいと思います。テーマは、虚構と現実です。「人間失格」が人気な理由の一つ目で少し触れたところですね。

聖地巡礼~虚構に浸潤する現実~

虚構の中に現実が入ってくるというのは、当然あり得ますよね。全くの虚構は存在しないわけですから。ただ、「人間失格」に関しては少し位相が異なると思います。

主人公の大庭葉蔵は明らかに太宰治本人がモデルです。そして執筆後に太宰は自殺してしまう。そのため、作品セカイの虚構と実際の太宰がぐちゃぐちゃに混ざってしまった感があります。

実際、集英社文庫の解説は太宰の娘さんが書いているのですが、彼女は葉蔵と太宰をほぼイコールだと思っていたと吐露しています。それほど虚構と現実が曖昧になってしまったことがこの作品に不思議な魔力を纏わせたことは、疑うべくもありません。

さて、みなさんはどれくらい虚構と現実に線を引いていますか?ぼくは以前の投稿で書こうとしたキャラクター論の結論は、虚構と現実に明確な境界はないということでした。ただ、実際問題、現実には境界はあります。(とてもややこしい言い方になっており申し訳ないのですが、いつか整理します。)

そして、その境界を、認識の問題ではなく、可能な限り虚構を現実に近づけようという動きがアニメのセカイでありました。その最たるものが「聖地巡礼」です。

聖地巡礼は、ゼロ年代後半のサブカル論壇でニコ生、ボーカロイドと並ぶ一大トピックでしたので、ここで詳しく分析やらなにやらを記述する気はありません。

ただここで強調しておきたいことは、アニメに現実の風景が描写されると「虚構の中に現実が浸潤する。」そんな感覚を想起しました。アニメキャラたちが実際の街並みに模した空間を歩く風景は、アニメキャラが現実に舞い降りたというよりは、鑑賞者がアニメのセカイへと没入する感覚に近いのです。

アニメで現実の風景を描くという手法を戦略的に行なったのは、おそらく京都アニメーションでしょう。「らき☆すた」ではすでに京都アニメーションそのものに登場人物たちが聖地巡礼に訪れたりしています。

また、京都アニメーション出身のアニメーション監督である山本寛が自主制作作品「薄暮」を最近発表しました。ぼくも観に行きましたが、福島の寒村を舞台に美しい自然描写に力を入れた作品でした。上映後、山本監督の舞台挨拶があったのですが、まさに監督が「舞台となった福島に、このアニメを通して聖地巡礼を誘発したい」と仰っていて、宜なるかなと思ったわけです。

他方、同時期に新海誠「天気の子」も上映されており、こちらも現実の街並みの再現、というより過度に美化されて描写されていました。

アニメのセカイにおいては、ここまで虚構に現実が浸潤してきています。この流れはおそらく産業構造にまで複雑に絡み合っているので、今後この流れが加速することはあれ、なくなることはないでしょう。

シミュラークルとロマンティック

ここで大事なポイントは、虚構に現実が浸潤していることです。決して、現実に虚構が浸潤しているわけではありません。太宰治も京アニも山本寛も新海誠も、本論では語り得ませんでしたがVRもポケモンGOも、現実を何一つ変えていないことが重要です。すべての変革は、虚構の中にだけで起こっているという現実です。

ジャック・ラカンという精神医学者が、人間のセカイ認識を三象限に区分しています。象徴界、想像界、現実界です。ここで詳しく解説する能力をぼくは有しませんが、重要なのは人間は決して現実界に触れることはできないということです。

人間がこのセカイを受容するには、まず対象を記号化(=想像界)します。直接対象を認識することはできないのです。その後、象徴化されることになります。つまり、すべての物象はシミュラークル(虚像)としてしか認識できないということです。

(※「人間失格」において、太宰のシミュラークルとして葉蔵がいました。葉蔵が現実の太宰の延長として機能したおかげで、「人間失格」は世間的に傑作と言われるようになりました。)

ぼくは何が言いたいのでしょう。あまりに遠大なテーマのせいで腰砕けになっております。少し踏ん張ります。

人間の認識を通った瞬間、現実はシミュラークルとしてしか受容されない。つまり、虚構と現実という区分は本来存在しないのです。

言い過ぎでしょうか。ならば、虚構と現実をはっきり区分できる能力は人間にはありません、と言い換えます。


だからどうした、と思いますか?

ぼくはなぜこんなことを書いているのか。それは、ロマンティック(文学への没入)になるための準備のためです。

ぼくは前回、センチメンタルではなくロマンティックこそ重要だと書きました。メタ的でなく没入こそが、大事であると。そのためのロジックを構築したいのです。そのために書いています。


今回はとりあえず以上です。ロマン主義の再設定がいまのところの狙いです。日本においてロマン主義は保田與重郎などの保守系が提唱しており、第二次世界大戦の敗戦で一度途絶しています。それをどう再設定するかが課題です。

今回の投稿は驚くほどまとまりがないですね。それも仕方ありません。なぜならぼくの能力を大幅に超えたテーマに立ち向かっているわけですから。

ここまで読んでくださった方がいるか不明ですが、もしいらっしゃるならすぐにでも五体投地して最大限の感謝をお伝えします。ありがとう。


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