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SANAA展考察 「収束しない、2つのフィクション」

「TOTOギャラリー間」で開催中の、
妹島和世+西沢立衛/SANAA展 「環境と建築」
これがスゴかった。

SANAA
妹島和世氏と西沢立衛氏からなる、言わずと知れた世界レベルの建築家ユニット。
今までいくつも実物の建築を拝見したが、どれもスゴイ。
さらに今回は現在進行中のプロジェクトをメインにした展示(一部例外アリ)ということもあり、
いつもとは少し異なる角度からのインパクトだった。

・・・でも「SANAAはスゴイ!」なんて、
建築業界の人なら誰でも分かっていることを、改めて言ってもしょうがない。
また、このままだとSANAA展に圧倒されたまま「SANAAはスゴイ!」としか言えなくなってしまいそうだったので、
元々書く予定のなかったSANAA展示考察を、自分なりにササッと書いてしまうことにした。

ギャラリーレポートではないので、展示内容の細かい説明は省く。
プロジェクト1つ1つもスゴイのだか、それに言及することもしない。
書きたいことを書く。
気になる方は実際に展示へ足を運び、ご自身の目でご覧になっていただきたい。

また、以下の内容は鮫島さんと交わした議論を元に書いている。

今回鮫島さんと一緒に展示を拝見した。
彼の意見はとっても鋭く、
もし僕が面白い考察を書けているなら、それは鮫島さんのおかげだと思う。


2つのフロア、2つの視点

会場である「TOTOギャラリー間」は3階と4階にまたがっており、
中庭の屋外階段を介して2つのフロアを行き来する。
そのため、一つの展示会場ではあるものの、経験としては
3階(室内)→東京の街並・風景(外)→4階(室内)
・・・なんて具合に、外部によって一度切断されることになる。

今回のSANAA展は3階、4階ともに建築模型の展示となっている。

3階に広域の模型や建築の全体を俯瞰する模型を展示し、
4階に工法的な詳細を見せる模型を展示しているが、
いくつかのプロジェクトが3階と4階両方に、別々に展示がなされているのが面白かった。

普通なら、広域の模型と詳細模型は図面等とセットで、1ヵ所に展示する。
情報を一箇所にまとめた方が、その建築物が実際に建った時のリアルに近づけるような気がするからだ。
しかし、SANAA展ではあえて、別のフロアにバラバラで展示していた。
プロジェクト別に展示せず、テーマ別で展示をまとめる今回のような方法が全く新しい、というわけではない。
ただ、上下階で展示物のビジュアルやスケールがあまりに異なるため、
同じプロジェクトの展示であることを、一瞬疑ってしまう。

結果「この建築物が実際に建ったらどうなるんだろう?」という現実の建築物に、イメージが収束しない。
3階と4階は分裂したまま、
地面からやや遊離したまま、
リアルではない別の何かを伝えている。

どちらが環境で、どちらが建築か、分からない

次に目を引いたのが3階の模型群だ。
周辺環境を含んだ広域の模型が展示内容の半分で、残りの半分は建築物のみ、もしくは建築物の屋根のみの模型だったりする。
ジオラマのように現実を再現するというよりは、いずれも色やテクスチャーが抽象化されており、
設計者自身の特異な「建築物・周辺環境への世界観」が強く反映されている。

また、設計しているはずの建築物が模型の端っこに配置されていたり、
周辺の建物と紛れてどこにあるか分からなかったり、
周辺環境も特定のモノ(河川)しか表現されていなかったりと、
建築物と周辺環境が「図と地」「表現とコンテクスト」という関係になっていないことも特徴的だった。

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(上写真)
銀色の不定形な板はSANAAの建築物に見えるが
実は敷地周辺の河川のカタチ

当たり前だが、どんな建築でも周辺環境が先に存在する。
設計者はそれを「コンテクスト」とか「フィールド」とか呼んだりして、
目のまえに広がるそれの上に建築をポンッと置く。
周辺環境は設計者にとっては所与のもので、建築物は設計者の裁量によって形作られる。
だから普通は、
設計者にとって、周辺環境は建築物よりはるかに偶然的だし、
設計者にとって、建築物は周辺環境よりもはるかに恣意的だ。

(上写真)
OMAをはじめ
建築模型の写真には度々「手」が登場する
「設計したものをポンッと置く」
というジェスチャー

しかしSANAA展3階では、SANAA特有の造形もあいまって、
周辺環境は建築物と同じぐらい恣意的に見えるし、
建築物は周辺環境と同じくらい偶然の産物であるかのように見える。
もはや、
「周辺環境の上に建築をポンッと置いている」ようにも見えるし
「建築の上に周辺環境をポンッと置いている」ようにも見える。
両者が馴染んで一体のものになっているわけではない。
程よい距離をとりつつ、お互いがお互いにポンッと置かれているので、
環境→建築という関係性は転倒し、建築→環境にもなる。
すると屋根だけの模型がだんだん、周辺環境を表現する模型に見えてきた。

どっちが環境でどっちが建築か、
よく分からなくなる。

2つのフィクション

人は全体を漠然と視ることはできない。
目の前を視るとき、その視点に基づき必ず何かを選択している。
そういう意味では「視る」は積極的な行為であり、
「視点」に捉えられた世界は、視ることの選択により別様に、表現されている。

※上記記事
05. 建築を四、五、六次元で捉える」で
この辺の話をもう少し掘り下げているので
合わせてご参照いただけると嬉しい

3階と4階は視点が全く異なる。
いずれのプロジェクトも順調に計画が進み工事が終われば、一つに建築物に収束するはずだが、
SANAA展においては、3階と4階は文字通り別のストーリー: stories=階層、
もしくは、(今のところ)現実の一点に収束しない2つのフィクションとして提示されている。
ギャラリースタッフの方に伺ったところ、展示予定だったものの中には1年の展示延期の間に竣工したことで、今回意図的に展示から外された建築物もあるらしく、
そのことからも、今回の展示手法がリアルから意識的に距離をとる所作であることがうかがえる。

リアルに収束しない2つのフィクションが(現実の建築物に将来的に至る以外に)一体何を目指しているのかについて、真意は定かではない。
3階=西沢立衛的、4階=妹島和世的とも見れるし、
リアルな建築物の実態から距離をとることで、作品横断的に解釈したり発想することができるようにも感じる。
もしくは、人を魅了し動員するためだけの美学的なトリックなのかもしれない。

追記 (2022.01.15)

その後鮫島さんとSNS上で話し、
「収束しない2つのフィクションをつなぎとめるものは鑑賞者では?」という重要な指摘をいただいた。
確かにその通りで、むしろ、だからこそ成立している展示であるともいえるし、ある意味ではレム・コールハースの「錯乱のニューヨーク」を思い起こさせる。

またこの「交わらない複数の圏域を人が行き来する都市像、建築像」は下記の記事におけるApness論という、僕の公共性論にもリンクする。

あわせて読んでもらえると嬉しい。

+余談1 (2022.01.14)

今回僕はSANAAの本気を見たと感じた。
なぜならあらゆる角度から「巨大なフィジカル模型の可能性」を提示してきたからだ。

卒業制作にて冷蔵庫サイズの模型を2つも作った僕が言えたクチではないが、
これを見てもなお、日本の建築展が巨大模型で席巻され続けるのだろうか?

+余談2 (2022.01.14)

「野暮かなー」と思い上ではあえて直接は言及しなかったのだけど、
「誰もツッコんでくれないだろうなー」と思い、余談として以下のことを書いておく。

SANAA展は「ギャラリー間」という建築空間に対する回答も出した展示になっている。
「なぜギャラリー間は2フロアにまたがって計画されているか?」
「なぜギャラリー間はグランドレベルから遊離したレベルに計画されているのか?」
「なぜギャラリー間には街並みを見晴らせる中庭があるのか?」
「なぜギャラリー間の2フロアは中庭の屋外階段でつながれているのか?」
この辺の疑問に応答するように、展示構成やコンテンツがデザインされているので、SANAA展にとって周辺環境となっているはずの「ギャラリー間」が、
あたかもSANAAによって設計された建築であるかのようになっている。

つまり、上で考察した3階における「環境⇄建築」の転倒というドグマは展示のコンテンツ内だけでなく展覧会全体にも入れ子状に適用されている、ということになる。
「ギャラリー間」は素敵な空間を持った展示スペースだということは今に始まった話ではないが、
ギャラリーがグランドレベルにない理由なんて、今まで考えたこともなかった(し、そもそも偶然そうなっただけなのかもしれない)。

ホワイトキューブ批判でもあり、
もしかしたらSANAAにとっては、
「世界は全て、『環境⇄建築の転倒』ドグマの入れ子状の連続」
に見えるのかもしれない。
SANAA、恐るべし。
(あれ、そうするとこの記事のタイトルは
「収束しない、2つ(以上)のフィクション」
なのかも?)

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MACAP代表 西倉美祝
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