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噺の話:『落語心中』の読後感想

 エー、本日はかようなところへお運びいただき、厚く御礼申しあげます。

 突然何が始まったかとお思いでしょうが、早く言やぁ、アタクシ最近ついうっかり落語にハマッちまいましたもんで、そのことをね、何、大した話じゃあございませんが、ちょいと喋りたくなったとこういう訳でして。そいでせっかく落語の話をするならそれらしい喋り方にしようと思いますと、こんな江戸弁もどきになっちまうわけで。どうもあちこちから叱らイそうな気もいたしますが、なにとぞ大目に見ていただきますよう。

 なぜいきなり落語にハマったかってェとね、まァこのところ、世間じゃステイホームだなんだって言いますでしょう。それで今年の5月の連休も大人しく家でジッとしてたんでございますが、ただジッとしてるんじゃあつまらない。何か無聊を慰められるもの、そう例えば面白そうな漫画なんぞはないかしらってんで、見てますとね、『昭和元禄落語心中』てェ漫画が目に入りました。なんだか見覚えのあるタイトルだと思いましたら、何年か前にアニメになったりドラマにもなったりしていたようでして。よくききゃあドラマ版で主演したのがあの俳優の岡田将生さんだってェんじゃありませんか。どうして誰かもっと早く教えてくれなかったんだいなんて文句のひとつも言いたくなりますがね。
 その話題が盛り上がってる時にゃ気づかねぇで、随分たってから、不発弾が何かの拍子に破裂したような勢いでハマる。えぇ、珍しい話じゃあございません。何事もその人にとっての然るべき時機てェのがあるようですから。

 まァともかくです、『昭和元禄落語心中』――ここからは『落語心中』と略させていただきますが、粗筋を見ても面白そうな話だと思いまして、原作の漫画を読んでみた。これがねぇ、面白ぇなんてェもんじゃないんですね。

 時は昭和後期、大名人と評されている落語家・八代目有楽亭八雲のところへ、刑務所から出てきたばかりの青年・通称「与太郎」が弟子入りに参るところから物語は始まります。
 この八雲師匠てェのが、立派な噺家さんにゃ違いないんですが、どうもこう、ちょいと難しい方でしてね。弟子は取らないと決めていたそうなんですが、何の気まぐれか犬っコロのように転がり込んできた与太郎を拾っちまうんです。与太郎のほうはそりゃもう大喜びでついて行く。
 八雲師匠のお宅に着きますってエと、そこには若い女性が一人。この人は小夏さんと言いまして、八雲師匠の養子でございます。幼い頃にご両親を亡くされた小夏さんを、八雲師匠がお引き取りになりました。
 ところがこの二人というのが、どうにも手の付けようがないほどの犬猿の仲なのでございます。
 なんでも小夏さんの本当のお父さんというのは、八雲師匠の兄弟弟子でもあり、20年ほど前に天才落語家として名を馳せていた有楽亭助六という人なんだとか。真打に昇進してさァこれからって時に高座から姿を消し、その後、奥さんだったみよ吉さんと共に若くして亡くなってしまった助六。その死を巡って八雲師匠と小夏さんには何か因縁があるようでして。八雲師匠の幼少のみぎりから大名人と呼ばれる今日に至るまでの長い長ーい物語がそこにはあったと、こういう訳なのですが、まァそのあたりはぜひ原作をお読みいただきとうございますな。
 ともかくも八雲師匠は、兄弟弟子として、噺家としてかけがえのない存在であった助六と、その妻であり、かつて自分も恋をした相手であるみよ吉さんをいっぺんに失ったという過去をお持ちでいらっしゃる。それからというもの、自分はやはり一人で生きて行くほかない、落語と心中すると心に決めて高座へ上がり続けてきた。その姿は大変に美しい、しかし孤独なものでございましょう。
 さてそんな師匠に弟子入りした与太郎、初めの内こそ稽古もつけてもらえず、ようやく前座にしてもらえてもなかなかお客さんに届く落語ができず、やっと何か掴んだと思えば今度は師匠の独演会で大変なヘマをやらかしてあわや破門という調子でございました。しかし根は真面目でまっつぐ、そして何より心底から落語が大好きという男。徐々にお客さんの心を捉え、じりじりと力をつけ、「自分の落語」を探し求めながらずんずん進んでまいります。この与太郎の成長も大きな見どころですな。そいからこの人が八雲師匠や小夏さんにどう向き合っていくのか、という、落語を軸として展開される人間模様もまたこの作品の魅力でございます。

 粗筋まででだいぶ長くなりましたな。もうお疲れの方もおありでしょうが、実はここまでは落語でいう「枕」のようなところでして、音楽でいうならイントロです。ここからが本題でございます。エー、この後のお目当ての出演者に備えてちょいと寝ておこうかしらってェ方、今のアタクシの時間がちょうどよろしゅうございましょう。どうぞお休みンなってください。

 はじめに申しましたが、この『落語心中』を入り口といたしまして、アタクシはすっかり落語というものに興味を惹かれました。ですんでここからはちょいと、『落語心中』のお話もしつつ、落語のことも喋らしていただきとうございます。
 まァそうは言いましても、昨日今日に落語を聞くようになった、いわゆるにわかファンというやつですから、大したこたァお話しできゃあせん。何せ落語というのは知れば知るほどに奥の深いものでございますな。江戸時代から長く大衆に愛されている娯楽でもあり、また古典芸能としての側面も持っているという。

 ほかの日本の古典芸能、例えば歌舞伎ですとか能、文楽などと比べますと、落語というのは素朴で気安いもののように思われますな。
 まずもって演出が簡素な印象を受けます。何も舞台は必ずしも立派なものでなくて良いし、演者は扮装も化粧もしない、面も人形も使わない。出囃子や太鼓はありますし、噺によっては鳴り物が入るものもございますが、そういったものを除きますと、噺家の方というのはたった一人、身一つで高座へ上がります。小道具も、江戸の落語であれば扇子と手ぬぐいだけでございます。ある意味では『落語心中』の八雲師匠がいうように、高座の上で、噺家の方というのはたいそう孤独なものかもしれません。
 しかしその、ほかならぬご自身の声、言葉、表情、そして身振り手振りでもって物語の世界をつくりあげてしまうというのがやはり名人のなせる業でございます。観ている間、あの座布団一枚分の空間を中心にして何人もの人物が現れては去ったり、周りの景色が浅草になったり東海道になったり、時代が江戸や明治に移ったり。人間の想像力てェのは面白いもんですが、それをぐいぐい引っ張り出してくれるのが噺家の方の芸であるようです。

 シンプルである分、これを観るほうは気軽な心持ちで観に行くことができるという面もありましょうな。アタクシなんぞは不勉強ですから、歌舞伎や能を見ようと思っても、前もって筋を知っておくか、横に字幕などを出していただかなければ、ただ見ていても何がどうなっているのかさっぱりわからないということになる。いえ、もちろん役者さん方の素晴らしいのはわかりますが。そこへ行くと落語は親切なもので、何も知らずに耳で聞いてスッと話の筋が聞き取れますんでね。この気安さはアタクシのようなずぼらな者にゃたいへん助かります。
 ただこれね、声の出し方だけのことじゃあございませんで。
 落語の噺といいますのはおおよそ成立した年代ですとか、作者がはっきりしてるかどうかで、古典落語と新作落語に分けられるようでして。新作落語はその時代の世相を映したり、社会風刺なんかを含んでたりもする、要は今の人が聞いてその面白さですとか意味がよくわかるようになってンですが、そうではない古典落語であってもね、今の人が聞いたってスッと共感したり面白がったりできるものだという。
 もちろん当時から比べると価値観なんかも随分変わっておりましょうし、死語になっている言葉も増えております。古典落語の中にゃ今の人にとっては予備知識がないとサゲの意味がわかりにくいものもございましょうが、それでも、令和の世に江戸やら明治やらの昔に生まれた噺を聞いてもなお面白い、滑稽噺に笑える、怪談噺を聞いてゾッとできる、あるいは人情噺を聞いて感動できる。
 景色や人物の描写なんてェのもそうです。『落語心中』を読んでから、そこに出てくる噺、そうでない噺も色々と聞くようになりましたが、「芝浜」の冒頭で浜辺の夜明けの空を思い浮かべてほうと息をついたり、「火焔太鼓」の道具屋夫婦の口喧嘩がどうもうちの親のようだと思ったりしている時、そこに時代の隔たりてェのは感じられません。こらぁ凄いことだとつくづく思います。

 『落語心中』の与太郎の台詞として「落語は共感を得るための芸です。笑わせるだけのものじゃない。共感は時代では変わらない」というのが出てきます。まァこれ実は与太郎自身の言葉でなくって八雲師匠の受け売りだったんですが、それでもこの作品の中で、与太郎もそれを体現するような噺家になっていくというわけです。
 作中では、八雲師匠や助六、与太郎の演じる噺が本筋と重なったり、物語の展開の中で大事なカギになるところが多くございますが、それが成り立つのもやはり、落語が共感を軸としているからかもしれませんな。

 それにしても読んでいる最中は、出てくる噺家さん方みなさんあまりに魅力的なもんですから、アタクシもひとつ今からでも仕事を辞めて噺家を目指そうかしらなんて料簡を何度か起こしかけましたが、そんなふうに気安く踏み込んでいい領分じゃあないようでして。名人の高座を聞いてただ真似て話すだけなら、素人でも容易くやってのけてしまう方もおられましょうが、作中で八雲師匠が言う「自分の落語」といいますのは、それだけでたどり着けるものではないようでございます。

 ちょいと今から、いわゆる「ネタバレ」になるようなことと、アタクシの個人的な解釈なんかも喋りますンでね、聞きたくないお方は耳栓をご準備願います。

 作中に出てくる樋口先生てェ落語好きの作家さんが、八雲、助六、与太郎の三人の落語をそれぞれ評してこんなことォ申します。八雲の落語は経験と鍛錬に裏打ちされた確たる技で、それをもってご自分を表現している。助六の落語には「何を演じても助六になる」てェ強烈な個性と説得力がある。そうして与太郎はってェとそのどちらでもない、自分の思いを託すことのない、純然たる落語のための容れもの。
 助六の落語の個性てなァ、助六自身の生まれ持っての性格によるところもありましょうが、幼い頃から落語を覚えて育ったってェ生い立ち、「八雲」の名跡を継ぎたい一心から培ったものでもあるかもしれません。物心ついたころから身寄りのなかった彼にとってはそれが生きていくための手段でもあり目的でもあった。
 一方で八雲師匠の落語もまた、生きるため、自分の居場所を作るためのものでございました。芸者の家に生まれ、子どもの時分に足を悪くしたことで、捨てられたも同然で先代の師匠に弟子入りしたのです。それでも「ここにいていい」と思えるようにするために、彼は自分の落語をなんとしても確立しなくてァいられなかった。落語は唯一自分自身を支えるものとなっていたのかもしれません。助六とみよ吉の二人を亡くしてからは尚更でございましょう。だからこの作品は『落語心中』なのかと存じます。芸の神様にお会いするために何も惜しくないと言い、あくまで孤独であろうとする八雲師匠の演じる「死神」は、このお話のなかでも一番重要な噺のひとつでございましょう。
 そこへ持ってきて、与太郎の落語、第三の型でございます。
 物語の序盤、八雲師匠と小夏さんが、与太郎の寄席の空気に助六のそれと似たものを感じ取る場面がございます。確かに与太郎の落語は八雲師匠よりは助六に近いものだと思われますが、実は根底のところァ違っておりました。与太郎には「我」がない。彼が落語をするのァほかでもない、「落語のため」「落語に出てくる人たちのため」でございます。もちろん師匠にも落語と心中なんざァさせません。この人ぁとことん落語が好きで、落語のために落語家さんになったような方でございます。
 このお三方を見るにつけても、落語というのはほんとうに多様性の芸術なんでございましょうな。口伝の芸でございます。演じる人によって、おんなし噺が全く違うもんになっちまう。その人の解釈、だけでなしにその人の人柄、生き様、そういうもんが現れてくる。だから落語てェなぁ奥が深くて面白いのかもしれません。

 最後にこれだけ申しあげときたいンですが、原作の最終巻のお話で、八雲師匠と小夏さん、そうして、小夏さんの子どもである信之助が、ラジオから流れてくる与太郎の「野ざらし」を聞く場面がございます。この場面がアタクシほんとうに大好きなんです。読めばわかります。

 落語と心中する。そんなこたァできないんです。与太郎の言葉をお借りするんなら、こんないいもんが無くなるわけないンですから。無くなってもらっちゃあ困ります。アタクシが観に行けなくなっちまいますから。

 エー、ちょいと『昭和元禄落語心中』の読後の感想なんてのをお話ししたいと思っただけだったンですが、どうも勢い余って喋りすぎたようですな。こらぁ読後でなしに、大層なひとり語り、独語でございました。

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