大人の事情と子どもの日常
私が中学生の頃、1978~79年くらいか。
校内暴力というものが、全国で社会問題化していたようだ。
校内暴力とはどんなものかといいますと。
一番わかりやすいのは、尾崎豊の「卒業」の歌詞の次の部分である。
新聞とかテレビの報道などで見る校内暴力の実際は、校内の廊下を自転車で走るとか、窓ガラスはもちろん、壁もたたき壊すとか、机や椅子など学校の備品をことごとく破壊する、などであった。
私の通っていた中学校は田舎だったし、皆おとなしくてツッパリとか不良とかいなかったから、そういう話はどこか他人事で、みんなで仲良くワイワイやっていた。
ちなみにこの頃、私のクラスの女子内で流行っていたのは、週刊少女コミックの回し読みである。
竹宮恵子先生の名作「風と木の詩」の連載が同誌上でスタートし、我々はほとんどもれなくボーイズラブの洗礼を受けたのだった。
過激な少年同士や父親とのベッドシーンが教室内に飛びかい、「きゃー😆いやらしーッ!」という黄色い叫び声とともに、汚れを知らない少女たちは好奇心の赴くままに、アッチ方面の様々な情報を勉強よりも遥かに熱心な探求心から、情報収集し、共有し、互いの知識を高めあったものである……
いかんいかん、話がそれた。校内暴力だったっけね。
さて、そんな野蛮な暴力とは無縁の、のんびり中学生ライフを送っていた私たちが、2年生の時に修学旅行へ行った時のことである。
たしか修学旅行先は東京だったように思う。東京タワーのキーホルダーをおみやげに買ったのを覚えているから。
で、どこか関東の水族館か何かに寄った時に、そこに同じくどっかから来ていた他校の修学旅行生に、うちの生徒が因縁つけられたんである。
私はたまたまその場にいたが、覚えているのは、相手がいかにも、ヤンキーぽかったことである。学ランに「ひさし」みたいなリーゼント、ボンタンズボン(幅が広くてやたらタックのあるズボン)を着用し、「めんち」を切ってきたんである。
多分、ヤンチャな子たちが多い学校だったと思われる。
さて、からまれた男子であるが、クラスのリーダー的な人気者で、性格はおだやかな優しい子だった。
先にも述べたように、ウチの中学にはヤンキーはおらず、免疫が無い。こういう場合にどう対処したらいいか、わからなかったのである。
だから、その子は、反応が薄くてイラついた相手に、ちょっとだけ、軽ーく、殴られちゃったんである。まあ、チョッカイっぽい感じだ。
だけど、当然、先生たちが飛んできて、相手校の先生も慌てて現れ、現場は何かしら騒ぎになったのだと思うのだが、正直、あまりよく覚えていない。
で、問題は修学旅行から帰ってきてからなのである。旅行先での一件が、なぜか新聞ネタになり、堂々掲載されたのである。
その時の見出しが、
『非暴力貫いた、無抵抗の校風』
…… シーン ……
みんな、無表情になった。
え。ちがうよね。
単に、こわくて、
何もやり返せなかっただけだよね。
経験値不足のチキンだっただけだよね。
……
……
なぜか世間的には、私たちが争いに無言の抵抗をしたことになり、ラブ&ピース的な、ジョン・レノンもイマジン歌いながら飛んできそうなくらいのスタンスに、「仕立てあげられた」のであった。
その後、相手側の中学校の校長先生が来て、講堂で土下座するのを見せられたが、特に何も、感じなかった。
ただ、大人って大変なんだな、大人になったら、こんなアホらしい事も、まじめな顔してやらなくちゃダメなんだな…みたいに思ったような気がする。
唯一、相手校の殴った当事者の中坊が、校長と一緒に謝りに来なかったことだけは、救いだった。幸いにも彼だけが、マトモだった。
みんな、ハ ハ ハ … '`,、('∀`) '`,、
みたいな、気のぬけたコーラのような笑いでごまかすしかなかった。
ただ、しらけた気分で、大人への階段を一段上がったような気はした。
それほど気にもかけずに、そんな事もあるよね、くらいの感じで、私たちはこの一件を片づけた。ほんの少しの違和感と一緒に、心の中にしまいこんだ。
来年は、高校受験。
とりあえずは、来月行われる「全国一斉学力テスト」に向けての対策を取らねばならない。
忙しい、忙しい。
ボクは悲しい受験生。深夜ラジオを聴きながら勉強する以外に、やることなんて、ありゃしない。
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