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「根性がない」という言葉について

とっても嫌な辛い経験をした人にも、2種類いる。「もう誰にもこんな思いはしてほしくない」「悪い仕組みは後世には残したくない」と考える人。一方で「みんなも同じ思いをした方がいい」「その方が自分と同じく根性が身に着く」と悪習を改善しようとせずに、むしろ周りに勧める人もいる。

「ブラック企業にいた方が成長できる、だから今の若者には根性がない。」そんなことを誰かが言っていた。その人がそう思うのは自由。でも、それが「みんなも」になると、話がおかしくなる。それに、果たして「辛い環境にいれば根性が身に着く」のは本当だろうか。

会社内にもそんな上司がいた。「わたしの頃は全く知識がないのにいきなり窓口に立たされて、お客さんにやり方を聞いたのよ。」自分はその上司には、同じように放置プレーをくらった。きっと同じ経験をして欲しかったのかもしれない。

話は変わるが、昔は井戸水を汲み上げて使った。洗濯板を使って川で服を洗った。その方が筋力が付くし、辛いことをすれば根性が鍛えられるのなら、昔の人には根性があったのかもしれない。それでも、人は水道を整備し、洗濯機を発明した。進歩した。そのおかげで手が荒れることは減ったし、浮いた時間で他のことができるようになった。だから、「みんなも同じ思いをした方がいい」という人には、何かを進歩させるという発想がない。

それでは、「冬山登山をすると根性が身につく。だから冬山登山をしない奴はダメだ」と誰かが言ったとしたら、どうだろうか。確かに冬山登山をしている人には根性があるように思える。だけど、山を降りて、司法試験に合格しろ!という目標を与えたとしても、必ず合格できるわけがない。それは、根性がないということになるのか。おそらく、冬山登山をしている人は、冬山登山が大好きなんだ。だから、他の人には苦痛にしか感じないことも、楽しくて仕方ない。

それを考えると、周りから「根性ある」と評価されていることは、当人にとっては、ただ好きなだけ、という可能性が高いのではないだろうか。

この視点で考えると、確かにブラック企業的な環境を好む人も一定数いる。私もブラック企業ではないが、ワンマン経営者の元で働いたことがあるから、少しだけ気持ちがわかる。カリスマ性がある人の元で働くと、自分まで有能な人間になったように勘違いしてしまう。自分の頭で考える必要もなくて、課されたノルマや、言われたことだけをやっていればいい。普段辛辣な人から、ごくたまに褒められると、それがやりがいになってしまう。ある種のマインドコントロールに近いかもしれない。だから、「ブラック企業で働く人は根性がある」のではなくて、その環境が好きなだけ。もちろん、辞めると殴られるとか、脅されているのならば別の話だけど、それはもう警察に相談する領域だ。そうでないなら辞めればいい。

だから、ブラック企業で働いている人は根性があるのではなくて、ただその環境が好きなだけ。それにもかかわらず、その環境を好まない人のことを「根性がない」と批判するのは、まるで、冬山登山が好きな人が、そうでない人のことを批判するかのようで、見当違いな気がする。

先ほどの放置プレーをしてきたおばさん上司は、きっとその辛い経験を乗り越えたということを、自己肯定の拠り所にしているのかもしれない。そのおばさんにとっては、宝物なのだろう。だから、同じように、「上司から放置されても乗り越えた経験」という宝物を、新人にも渡そうとしたのかもしれない。だから、そのおばさん上司は、その経験があるから根性があるわけではなくて、ただその辛い環境が大好きなのだ。それを乗り越えた自分が、大好きなんだ。

だけど、その経験を必要としていない人からすれば、宝物ではなくて、うんこを手に乗せられたような感覚だろう。私も同じような気持ちがして、腹が立ったのを覚えている。全然好きじゃない。効率良く仕事を教わり、なるべく早く戦力になりたいし、心理的安全性の高い職場で働きたい。その方がクライアントファーストだ。

だから、もし誰かに根性がないと批判されるようなことがあったとしても、「いや、ただそれが好きじゃないだけです」と思っていればいい。「根性」とか「気合」というワードが出てきた時は、それが好きか嫌いかについても、同時に考えた方がいい。

そして、辛い経験をしたなら、それを自己肯定の拠り所にするのは構わないけど、それを他人にプレゼントしても迷惑だし、どうせなら、他の人が同じ辛い経験をしないような世の中を作っていこうよ、と。そんなことを思った次第です。



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