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野党は野党としてふるまうことを放棄するな

「野党は批判ばかり」「野党は反対ばかり」ということが去年から盛んに叫ばれています。こうしたことを与党側が言うのはまだ良いとしても、それに迎合して野党みずからが「批判より提案を」などと言い始めるのに至っては憂慮を禁じ得ません。

 そもそも政党は一定の共通する理念や政治目的のもとに組織されているものです。自民には自民の考え方があり、立憲には立憲の、共産には共産の考え方があるわけです。それがどういった形であらわれてくるのかといえば、「あなた方のやり方ではだめであり、このようでなければならないのだ」というように、ある面では「だめなのだ」という批判や反対の形で、またある面では「こうでなければならないのだ」という提案の形をとることになるでしょう。すなわち批判と提案は表裏一体のものであり、どちらかを選び取ることができたり、一方が他方に優越するような性質のものでないのは明らかです。

 その表裏一体であるものが「批判路線か提案路線か」などとして二者択一であるかのように描きだされるとしたら、そこに働いている意図にこそ考えを及ぼさなければなりません。択一を迫り、批判ばかりではなく提案型でなければならないと主張することの根底にあるのは、批判をするな、翼賛的であれという圧力にほかならないのです。「野党は批判ばかり」という主張に対して、野党は政府提出法案に賛成もしている、立憲は8割以上、共産も半分以上の法案に賛成しているではないかといった反論はしばしば見るものの、それではこの圧力そのものに対抗することになっておらず、反論としては空を切ってしまうでしょう。

 この圧力が向けられる先は憲法と野党共闘です。アメリカからの圧力もあり、2014年には集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされました。2015年には安保法がつくられ、2022年の今は敵基地攻撃能力が議論にのぼる状況です。衆院の任期は4年であるため、今年7月の参院選を越せば政権は最大で2025年まで衆参両院の選挙を回避することができ、その間に安全保障をめぐるこの一貫した流れは大きく進む余地をもっています。改憲においてもまたそうです。そのときに与野党の全面対決という形で世論が真っ二つに割れて争うようになるか、それともオール与党体制で審議がされるかということで、政権が意図するように事を運んでいく容易さは全く異なったものになるでしょう。

 こうしたことを考えている勢力は与党にも野党内部にもおり、様々な画策が行われているとみられます。特に鍵となるのは野党第一党の左派、つまり立憲民主党内の左派ということになるはずですが、「批判より提案を」というのは、それを沈黙させるための圧力として作用します。そして立憲の右派に主導権を握らせ、共産や社民・れいわ新選組との関係にくさびを打ち込んで切り離し、他方で国民民主や維新に接近する。これは別の角度から見れば護憲勢力から切り離そうとしているということになるでしょうけれども、与野党の間でも、また野党の内部でもそうした緊張を持った綱引きが行われていて、立憲も野党共闘もゆさぶられているわけです。

 提案型野党というのは、立憲の代表選の後にことさら言われているように見受けられますが、衆院選直後から立憲の内外では綱引きがありました。例えば連合の会長である芳野友子氏は、昨年の衆院選以降、たびたび「共産党との連携は失敗であった」と主張してきました。新代表となった泉健太氏も、共産党との距離をとるとともに、他方では国民民主を兄弟政党と言うなどして接近をうかがいます。

 共産、社民やれいわと協力する必要はなく、むしろ与党に近い位置で働いて政治の利権にあずかったほうがいい。そう考えている人たちは、立憲の中にも一定数はいるでしょう。しかしあからさまにそうしたことをすれば支持を失ってしまうため、選挙の際には黙って候補者をおろしてもらって票だけはもらいたい。野党共闘は、そのようなもくろみのもとに内実のないものになってしまう余地を持っています。もちろんそういった、ただ候補者が立っていないことによって票がまとめられるというような理念を欠いた小細工のごときものに堕落してしまうのでは、無党派層への浸透どころか野党内の票の合算すら満足に成立せず、せっかくの選挙協力も威力を持つことはないでしょう。内実を持ち、覚悟を持ち、堂々とたたかう者にこそ、有権者は希望を見出します。では、内実や覚悟はどこから生まれてくるでしょうか。

 通常国会から参院選を経て、与党側は改憲や敵基地攻撃能力の実現をうかがいます。また教育や家庭に介入し、右傾化を強めるということもしたいでしょう。けれどもそのようなことをしたところで日本が良い方向に進むはずがないのは少し考えてみれば明らかです。たとえ敵基地攻撃能力を実現し、日米・中露の摩擦のなかで一時的に事を有利に進めたとしても、それを通じて日本の発展がもたらされるなどということはありえません。そうしたことではどうにもならない、日本の深くに根差す問題がまさに足元に横たわっているのです。

 今の日本は、少しずつ豊かになっていくというかつての条件を失ってしまいました。バブル崩壊からの30年のあいだ、生活は豊かになるどころか賃金は低下しています。そうしたなかで親は子供の面倒を十分に見る余裕をなくし、児童相談所は加速的な相談の増加に対応が追いつかず、教育も子育ても限界になっています。少子高齢化は日本の人口バランスを大きく変えてしまい、地方の人口減少は際限なく進むでしょう。日本が直面しているのはこうした現実で、今後10年、20年で荒廃していくことは火を見るよりも明らかです。この危機と正面きって対峙して、この危機をもたらした与党勢力と対決し、政治経済の転換を目指して未来を切り開かんとする勢力が日本には必要です。

 社会は根底から変化していっています。これまでも、これからも、取り返しのつかない変化の過程にあるのです。ですから改憲なり何なりをして、古き良き日本を取り戻すのだなどと保守が言ったところで、そんなものはどこにもありはしないのです。例えば日本会議の価値観があったとして、その価値観でいまの日本が抱えている問題が解決するかといったら全然それはしないのです。それは日本の抱えている根本の問題が何なのかということについて、何も頭にないからです。地方の人口が都市部に集まってアンバランスになっているということを危機だと認識していない。その中で呻吟する人がいるということが理解できていないのです。

 こうした状況の中で誰かが、新しいまともな社会の姿を描きだし、その実現に向けて動かなければなりません。議論の中から次の社会を引き受ける覚悟を持った担い手が生まれてこなければなりません。与党が担わないのであるならば、野党が担うよりほかにありません。今後、日本の状況がさらに深刻化するにつれ、それを乗り越える希望がより強く求められていくでしょう。そうした状況下の意識のもとに、志ある政治家と市民とが呼応して力をもつことが可能であるはずです。

 与党は確かに強いかもしれません。けれどもそれに迎合することでその強さにあずかれると思うのは間違いです。文句を言わず、物分かりよくニコニコしていれば支持されると思ったら間違いです。提案型野党などというのは実のところ、強行採決と言わせないための道具として利用されるだけの衛星政党にすぎません。そのようなものが、市民の期待を背に受けながら未来を切り開いていく存在となるわけがないではありませんか。

 強者に対して迎合し、受動的にふるまって埋没していくのか。それとも世論に働きかけ、それを揺り動かし、牽引しようとしてふるまっていくのか。2つの道があります。未来において支持されるのは、世論に迎合する者ではなく、怯まず状況と対決し、支持されるように世論を作り変えていく者なのです。

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