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ふとした瞬間、今まで未知だった世界の中にいることが、不思議に思えてくる

わたしは大学の寮のひとつであるオロフという場所に住んでいて、そこのカフェでボランティアを始めてから、日本の友人や日本語学科のスウェーデンの友人といる時間に比べて、カフェにいるヨーロッパの友人と時間を過ごすことが多くなった。

留学に来てから今まで、想像以上にたくさん友人ができて、いまでも毎週のように新しい出会いがあったりする。

この3ヶ月間、”where are you from?” という典型的なひとつめの質問で、拙い英語ながら周りの人達とコミュニケーションを図ることを頑張ってきて、はじめはベルギーさえも聞き取れなくて(ベルジウム?ほ?どこそれ、ってね。) 
でもそんなこんなで、本当に本当に、言葉通りの、”世界各地”の友人と出会った。

「オンラインで世界の人と繋がろう。」
「世界中に友人を作ろう。」

そんなキャッチコピーがよくあったりするけど、そんな、遠いような、漠然としたような、なんかありきたりのような、「世界」という存在が、いまとっても、なんだか、身近になったような気がする。

いや、留学生の子たちと交流できる環境にいるから、身近なのは当たり前なんだけど。いかに今まで、すごーーく遠くの世界に住んでいたのかなって。

他のみんなも、世界各地からスウェーデンに集まってきているはずなのに、でもなんか、それとは少し違う気がする。

日本だって世界の一部のはずなのに、みんなひとつの世界の一部に住んでるはずなのに、たまにヨーロッパの子たちと話していると、やっぱり日本や韓国とかのアジアの国は、みんなのそれよりもすごく、とっても遠くにいて、なんだかすこし、自分だけ今まで、かなり遠くで過ごしてきたんだなという気持ちになるときがある。(けして仲間外れにされるとかそういうネガティブな感情ではなくて、ふと、みんなのいるところとの距離の大きさを感じて、そう感じるときがあるって感じかな)

それは地理的な遠さ、環境の違いもそうだし、自分の拙い英語と、周りのみんなの素晴らしい英語の比較でもそう思えるし、こっちに来て、いかにヨーロッパで国境を越えることが容易なのか身にしみて感じたし、何ヵ国語も話せる友人がいることが当たり前で、将来はここの国に住みたいんだよね〜と、なんの躊躇もなく、自分の生まれ育った国ではない国で働きたいことを口にする友人の多さ、パートナーが違う国にいて、遠距離恋愛をどうみんな乗り越えているか話し合っているときも含めて、みんなにとっての「世界・国境・境界」は、わたしたち、日本で生まれ育った人たちが考えているそれよりも、はるかにもっと単純で、近くて、身近で、軽く踏み出していけるものなのかもしれない。
それが良いとか悪いとかじゃなくてね。

そんなふうに思うことがある。

もちろんこんな、みんな陸で繫がってるんだから当たり前なんだけどね。

でもみんなと過ごしているとふと、あぁ、みんなは留学が終わっても、飛行機で、2.3時間で行き来できる距離にいるんだな、この、日本に帰ったら二度と会えないかもしれないみたいな、「未知なる空間」にいるような感覚をたまに覚えてしまう私と比べて、みんなはとっても、お互い近くにいるんだなって思うと、世界の空間の歪みみたいのを感じる。

日本の子たちはほとんどが2セメスターの滞在なのに対して、ヨーロッパのエラスムスの子たちは半年だけの子が多くて、はじめは、ええ!もったいないって、思ってたけど、今思うと、もちろん渡航費の安さなどを含めた経済的な身軽さもそうだし、みんなにとって、国境を越えて勉強することって、わたしたち日本からの学生よりも、もっと当たり前で、そんなに大きな覚悟なんていらないもので、またいつでも帰ってこれて、いつでも自分の国に帰れて、他の国にもいける。そんな、日本での都道府県の移動のような感覚なのかな?さすがにそれは言いすぎだけど、でももしかしたらそんなこともあるのかもしれない。

みんな、近くにいてうらやましいな、なんてね。笑

このなんか、ヨーロッパだけを指して世界と言ってるのは批判されそうだけど笑
特にヨーロッパの友達が多いからこそ感じることなんだなぁ…。

だから、カフェのみんなとチャットしたり話したりしてて、ヘルシンキの子、スイスの子、イタリアの子、イギリスの子、フランスの子、そんな子達に囲まれて話していると、あ、わたしほんとに世界の中にいるんだって、今まで、未知のようで、遠いようで、一歩踏み出さないと全く見えなかったような、遠く遠くの名前も知らない世界の存在たちが、身近にいて、隣りにいて、お互い名前を知ってて、SNSを知ってて、わたしがイベントをやろうとしたらみんなが手伝ってくれて、インスタに反応してくれて、話しかけてくれて、同じ建物に住んでて、あれ、いまこれって現実なのかって、本当に世界には、いろんな人が現実に住んでいるんだって、ふとした瞬間に不思議な気持ちになるの。

わたしが今度開催するイベントの申込書みたいのを書かないといけないときに、うちのリーダーのヘルシンキの子が、これ編集してーってgoogle docを送ってくれて、わたしが予算とか書いたら、最後足しといたよって、予算を割増して提案してくれて、そんな些細なときも、あぁ、こっちでもこんなに簡単にイベントはできちゃうし、はじめは英語が怖かったのに、こんなに簡単に協力して、書類も書けちゃうし、日本でカフェオロフのSNS見てたときは、すごーく未知だったものが、今ではFBの編集権ももらって投稿もできるようになったし、まさかの2万円以上の予算の決議がおりて、自分のやりたいイベントを開催できることになった。あの、がんばーってオロフのこと熱心に調べてたときにネットで見つけたカフェオロフの一員になって、いまではその中身を動かせる人になった。

国境を越えてヨーロッパに来ることがはじめは信じられなくて、未知のことで、そこで暮らすなんて想像もできなくて、そんな未知だったものの中でいま当たり前のように生活していることが、ふとした瞬間に、不思議に思えてくる。

朝起きて、ランドリーの予約の時間に向けて洗濯室に向かっているときにふと、あれ、わたし日本でどう生活してたっけ?どこに住んでたっけ?って、

いまの生活が、自分の当たり前になって、ヨーロッパの友人に囲まれることが、少しずつ当たり前になってくる。

「異文化交流」って、異文化が強調される響きだけど、オロフやカフェでみんなに囲まれて過ごしていると、あ、そういえばみんないろんな国から来てたんだって、あとからふと思い出したりとか、それが逆に不思議になったりとか。

日本はヨーロッパから本当に遠く遠く離れてて、島国で、だからヨーロッパの国とは単純に比較できないのはわかってるけど、やっぱりこういう地理的な条件って、未知なるものへの抵抗や境界を強める要因になり得るんだなって、自分で納得してる。


そんなまったく答えのない、嬉しさでも寂しさでもなんでもない、たまにふと感じる、「未知の世界」と「あたりまえ」と、そんなことを言語化してみました。

おわり!コリアンパーティーがんばるぞい!

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