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本の夜、再び。私は自分と言葉と向き合うためにカフェに行く。

あの贅沢な時間の流れをもう一度体験するために。私は再びgururi coffeeさんに足を運んだ。月に2回開催される、「gururi 本の夜」で、また私は深い時間の流れを知る。

前回「gururi 本の夜」について書いたnoteが多くの人に届いたことで、改めて「深い時間」について考えるきっかけができた。私にとって、深い時間、すなわち豊かで心から満たされる時間とは、どういったものなのか。私は何をしているときに心がワクワクし、じんわりとあたたかな感覚を得られるのか。そんなことをふらふらと考えながら、今回もgururi coffeeさんへ足を運ぶ。

前回と同じ席に座り、3時間ただ本だけを読む時間。スイートポテトのタルトとホットコーヒー、そして読んでいたのは村上春樹の「一人称単数」。スマホの電源をオフにして、ただ目の前の本の世界にのめりこむ。

私はよくご飯を食べながら、とか電車の中で、とか、何かをしながら本を読むことが多い。だけど、今回は違う。ながら読みではなく、読むことしかしていない時間だ。いつもよりも言葉がスッと目に飛び込んできて、本を読むという以前に「言葉を一語一句取り入れている」という感覚に近くなった。だから、いつもはもしかすると読み飛ばしていたかもしれない言葉でハッとして、目が離せなくなる、という経験を何度かした。

それこそが、カフェで本を読む、ただそれだけの時間を作ることの意義だと思う。家にいると集中していると思ってはいても、やらないといけない家事や他のことに気を取られて、集中しているようで集中しきれてはいない。電車の中でじっと読んでいたとしても、車内の喧騒はどうしても伝わってくる。寝る前に読書する時間を習慣にしているけれど、途中でうとうとし始めて、読んでいるかどうかわからなくなる時がある。けれど、そうじゃない、本当の意味での「言葉を読む」ために、私はわざわざカフェに行くのだと思う。

読書のほかにも、日記をつけたり、noteを書いたり「自分と向き合う」ためにカフェに行くことが多い。部屋にいてもできてしまうけれど、部屋での時間とは限りなく質の異なる時間の流れを感じられる。だから、あえてカフェに行くことを自分に許しているのだ。

今回の「gururi 本の夜」での時間も同じ。家でできてしまう読書だけれど、家ではない空間で存分に本の世界に没頭する贅沢を自分に許しているというような。自分と向き合う、言葉と向き合う。日常の忙しない暮らしの中でどっぷりと時間を確保することは難しい。

あえて、日常と距離を置いて、贅沢な時間の流れに身をゆだねてみよう。そうすることでしか得られない自分への気づきや、心に残るような言葉との出会いがあるはずだから。

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