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人生をデザインするということ

運営スタッフをしている共創コミュニティSUSONOで、8/29に佐々木俊尚さんと写真家の幡野広志さんのトークイベントを開催します。
それに先がけて行った幡野さんの著作「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために」の読書会の備忘録の第3回です。
第1回、第2回は下記からご覧ください。

++安楽死のこと

どうしても避けて通れなかった、安楽死のこと。
幡野さんも書籍の中で、かなりページを割いていた。

安楽死については、今年に入ってからALS患者の女性をめぐる事件があったばかりだ。
事件については色々な議論が起こったけど、その中でも私はこの記事に注目していた。

安楽死を願う人は、どうしてそう思うようになったのか?
それがわからなければ、議論の入口にも立てないと思う。
この女性の場合、もし記事に書かれた事情が間違いないとしたら、安楽死を選択する心境も理解できる。

私の安楽死に関する立ち位置は「安楽死の整備より前に、当事者の心身の負担をどこまで取り除けるかが先」という考えだ。

身体的苦痛には緩和ケアを。
心理的苦痛にはカウンセラーや、必要なら宗教者を。
いずれも最適なタイミングで選択肢にアクセスできる環境を整えることが先だと思う。

この考えは今も変わらない。
でも幡野さんのような病気の場合、それでは不十分なのかもしれないとはじめて思った。
理由は本書を読んで欲しいのですが、端的に言えば病気の特性上、緩和ケアだけでは間に合わないからだ。

安楽死に反対する立場から必ずリスクとして語られるのは、日本人の同調圧力の問題だろう。
安楽死を認めてしまったら、周りに迷惑をかけたくないという動機で、まだ生きられるのに死を選択せざるを得ない空気になってしまうのではないか?

そんな空気感をうまく表した、こんなコミックも目にしたことがある。

絶対こんな社会にしてはいけない。
これだけは強く思う。
でも一方で、あらゆる手を尽くしても取り除けない苦痛があるのだとすれば、そこから退場するための最後の手段として安楽死は必要なのかもしれない。

一貫して私は安楽死にはやや反対の立場ではあるけど、問題は単純ではない。
そのことが改めてよくわかった。

++人生をデザインするということ

一昨年、父を見送った。
終末期医療の方針を主治医から尋ねられた時、私たちは迷うことがなかった。
両親とも、もしもの時にどうしたいかを書面にしており、私たちも知らされていたからだ。

胃ろうはしない。
無理に生命を維持するために、様々な機器に体をつながない。
見込みがない時は、静かに自然に任せて欲しい。

その願い通りに出来たことは、家族にとって救いになった。
もちろん後悔することは山ほどあるけど、結果として出来る限りのことはしたと思っている。
意志をはっきり残してくれていた父には感謝しかない。

亡くなる数日前、もう長くないことを察したのか、父は家族一人一人にお別れを言った。
私には「他人に迷惑かけなければ、好きなようにやりなさい」、母には「楽しかったよ」と言い残したそうだ。
たくさんのチューブにつながれてしまったら、きっと聞けなかった言葉だろう。
その去り際は、父なりの人生の締めくくりのデザインのような気がしてならない。

いま、終活は注目されている。
とはいえ、まだまだ考えない人の方が多いだろう。
でも、自分がどんな最期を迎えたいか考えることは、自分の人生をデザインするための一歩なんじゃないかと思う。

生きるとは、「ありたい自分を選ぶこと」だ。
(中略)
自分の生き方を選ぶことができなくなる前に、自分が望む最期を選びたい。それがぼくという人間が生きた証になるのだ。

幡野さんは、こう締めくくっている。

自分の最期を考えること。
それは決してネガティブなことじゃない。
そこから人生を逆算していけば、きっと人生はデザインできる。

私は、最期に何を選ぶだろう?
まだおそらく半分くらい真っ白なキャンバスに、どんな色を載せていこう?
そんなことを読み終わってからずっと考えている。


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