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拝啓 20代の私へ。36歳の私より。

最近ぼんやりと感じていたことと、昨日とある方から伺った話が重なって、なんだかここに書いておきたい気分なので、ちょぴり思うままに綴っていこうかと思います。いつものごとく書きながら整理するパターンなので、取り留めもない記事になるであろうことを予めご容赦ください。

走り続けたのは、不安から目を背けるため?

先日無事に(?)36歳を迎え、いよいよ自分も言い逃れのない“大人”の部類になったのだなと、しみじみと感じていたところでした。誕生日が11月後半ということもあり、今年の振り返りを併せてやってみたのも影響したのか、ここ数日は「20代までの自分」と「30代からの自分」との違いについて、ふと思いを馳せる瞬間が結構ありました。
前回の記事にも書いたことなのですが、20代までの頃の私って、「とにかくやったれ精神」の権化で、なりふり構わず「一度きりの人生、やりたいことをやる!」という勢いで突っ走ってきたところがあります。しかし同時に、その“勢い”を掘り下げた奥に見えてくるのは、“自信のなさ”であったような気もするのです。「あれもやらなきゃ足りない」「これもやっておかないと将来心配」など、結局のところ“自分でない何か”を目指すことによって、目の前の不安から逃れるための言い訳としていたのかもしれません。

“自分じゃない何か”を目指し続けた末路

皆さんも子供の頃、一度は思ったことがあるでのはないでしょうか?「これって何のための勉強?」「何のために学校に通ってるの?」と。田舎育ちの私は、小・中の受験こそなかったものの、中学に入ってからの厳しい部活動の中で「もっともっと」の上昇志向を叩き込まれ、その精神を土台に高校受験に臨み、その後も”いい大学”に入るためにたゆまぬ努力をし続けることとなりました。でもある時ふと思ったんです。「この血のにじむような努力の先にあるのって、一体どんな未来なのだろう」と。
紆余曲折ありながらも“もっと”を頑なに貫き続けた私の青春時代は、大学を卒業して得た「某有名航空会社のグランドスタッフ」という仕事で、一旦の終止符を打ちます。「やった…これまでの努力がついに報われた…」と思ったはいいものの、一気に燃え尽きた私は、就職後の“なりたい姿”、“やりたいこと”をほとんど描けなくなってしまいました。気分は完全に「上がり」だったのです。

履歴書の一番初めにこのキャリアを書くと、驚くほど良く効きます。「じゃあしっかりしてらっしゃいますね」「英語も問題ないでしょう」「逆に何でうちなんですか」etc. このたった一文のお陰で、これまでの転職活動もだいぶと助けられてきたのは確かです。でもよくよく思い出してみると、世の中から評価される“その職”を得るために頑張ってきたのは、結局のところ本来の自分ではありません“評価されるために頑張ってきた自分”なのです。
「英語を勉強しとけば役に立つ」「立ち居振る舞いしっかりしてれば接客業に活きる」「TOEIC取っとけば履歴書に書ける」…これらの動機の中には、どこにも『やりたい』という自分の純粋な想いが含まれていません。“今ではない、いつか”のために頑張る癖を子供の頃から身に着けて、「これって何のためにやってんの?」という素朴な違和感をないがしろにしてきてしまったツケが、「あれ?自分って何やりたいんだっけ?」という信じられないほどシンプルな問いとして、大人になった自分に降りかかってきたのでした。

「社会軸」で考えるのを止めたら見えてきたもの

グランドスタッフを辞め、全国を転々としながら職を変え、「本来の自分」を取り戻すために、私は色んなことに手を付けてきました。その中にあっても“今じゃない自分になりたい”という気持ちが完全に払しょくしきれていた、とは言い切れません。特に20代のうちはまだまだ夢を見ていたし、「ここではないどこか」に行こうとしていました。
しかし手あたり次第のチャレンジの中でも、どうやったって譲れないもの、変わらず続けていることがあることに気づいたのです。私の場合、「書くこと」「愛情を持ってつくること」がそれでした。誰に頼まれなくても言葉を紡ぐし、人が「そんなことまで」と言うことにも心底向き合って考え尽くします。そして自分の書いたのものがどこかの誰かを少しでも幸せな気分にするということに、至上の喜びを感じるのです。

思えば、私が何かを書き始めたのは小学生3年生の頃でした。父が使わなくなったノートパソコンをお下がりでもらい、そこに当時ドはまりしていた漫画を丸パクリしてPC上に文字で起こす、という遊びをしたのがはじまりです。極度の恥ずかしがり屋で、ひとり頭の中で空想の世界をつくりあげることが好きだったのも、今思い返すと関係していたのかもしれません。
30代に入り、ゲストハウスを開業して、やっぱり忙しない日々を送ってはいるものの、今こうして「書くこと」を少しばかりでも仕事に出来ていることを考えると、なんだかクスっと笑えてきます。「随分回りくどいことしてきたよな~」という気分です。結局は自分が好きでしてきたことの中にヒントはあったじゃないかと。“他の誰か”や“自分じゃない何か”になる必要なんて、そもそもなかったじゃないかと。
昨日お話を伺った方の「今の仕事も、子供の頃の遊びの延長線上にあると思うんですよね」という言葉も同時に思い出しながら、さらにそのことを自覚したのでした。

悩め!若者よ!“自分の軸”で、手を動かして。

だから悩める若者へ思うことは、「どうか盛大に悩んでおくれ」ということです。でも気をつけて欲しいのは、頭だけで悩むのではなく、“手を動かしながら”悩んで欲しいということです。はじめから「これが自分の生きる道!」とまっすぐに進める人もいるだろうし、「この道だ!」と確信していたのに半ばで挫ける人もいると思います。「そもそも自分の道が見えませーん」というタイプも当たり前にいて、そしてそのどれもが正しいのです。ただし、どの道を選択するにしても基準を“自分の好き”で考えることを大切にして下さい。「社会的に評価される」とか「これが有利だから」なんかの打算を一番はじめに置いてしまうと、大切なタイミングで大きなしっぺ返しがきます。かつての私がそうだったように。

親になる年齢になった今、これからの未来を生きる子供たちには、自分の頃よりもっと素直に「自分の好き」を尊重して生きれる世界をつくってあげたいと、改めて思います。
そしてそのために誰に頼まれなくとも筆を取り、私は書き続けるのです。

2022/11/26
Misato


(ちなみに私のこれまでの経歴は、こちらにまとめてあります⇩)

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