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コミュニケーションと親ガチャ - エッセイ

アパレルで働いている女性から、ストーカー被害の話を聞いた。
閉店まで店内の様子を伺われ、退勤の際に声をかけられたという。
toCで働く女性からは、そうした経験を多く聞く。不気味な話だ。

バラまく性である男性は、機会を逃さないように"ワンチャン"に過剰に反応するよう発達したと聞く。男性からの「迷惑なアプローチ」の話が尽きないのは、そうした要因もあるのだろうか。

とはいえ、職場を見張り、仕事終わりに声をかけるというのは、コミュニケーションの始めかたとして、あまりにお粗末過ぎる。
男性からのアプローチが生得的なものだとして、アプローチ方法をもう少し精練できないものか。かけられた側が恐怖せず、穏当に出会いを終わらせる声の掛け方は、いくらでもあるのではないか。


新卒に求める能力に、コミュニケーション能力は不動の位置にある。
私は時代を経るにつれ、世の中がどんどんと便利に快適になっていると感じるが、ことコミュニケーション能力に関しては、課題を未だ多く感じる。
若い世代のコミュニケーション能力が落ちたと言いたいわけではない。出典を思い出せないが、職場でもっとも対人能力に劣るのは、4,50代の管理職なのだという話も聞く。
私が問題だというのは、コミュニケーション能力さえもう少し高ければ、生じなかった問題が多々あるのではという話。そしてその課題だけが、便利になっていく社会のなかで、いまだ10年取り残され、改善されていないのではという話。
さらにいえば、コミュニケーション能力が劣化していっているのではないかという話だ。しかも、全世代的に。

コミュニケーションは相互的なものだから、何を持ってコミュニケーション能力が高いか、判断するのは難しい。同年代や仲間内では饒舌でも、異なる世代とうまくコミュニケーションを取れない例はままある。
難しいが、私は「コミュニケーション能力が高い」とは、「"相手から見えている自分"を正確に読み取れていること」だと思う。職場で「この人、話し上手いな」と感じる人は、押し並べて、こちらのわかってないことだけを伝えてくれる。そして、こちらが知りたいと思っていることを察して伝えてくれる。
下手と感じる人は、自分しか見えてない。自分の困りごとや、伝えたいことだけを伝え、必要な背景情報が見えてこない。

システムの進歩は他人を隠す。それが、私が「コミュニケーション能力が全世代的に劣化しているのでは」と感じる理由だ。
システムの進歩で分業が進むと、人は細かく分断されたロールを演じるだけで済むようになる。コンビニでは、お客はサービスを要求する人で、定員は決められたサービスを提供する人だ。役割は固定されていて、細かな差異を考える必要はない。つまり、相手が何を考えているかを考える必要がない。そこには、やり取りはあってもコミュニケーションはない。

私は1年ほど、勉強のためにほとんど他人と会話せず生活していた時期があった。その頃の私は、コミュニケーション能力がかなり落ちたと感じた。コミュニケーションは、自転車の運転と違い、使わないでいると変質する。

この時代は、やろうと思えばロールを演じるだけで生きていける。そして、テレビやゲームやSNSで、擬似的な他人を感じられる。
しかし、そうしたシステムに乗ったコミュニケーションは、他人への想像力の要求度が低い。
「相手が何者かを考えなくても、安定してサービスを受けられるようにする」が、システム進化の方向性なら、並行して人々の「相手が何を考えているかを想像するコミュニケーション能力」は劣化していく。

極端に言えば、コミュニケーション能力が低い人は、相手方が思考して感じている人間だということへの理解が低い。相手が自分と同じ人間で、Aと投げかければBと反応するだろうという想定がない。
そうした世界観は、「親ガチャ」という言葉に象徴されている。

「親ガチャ」とは、家庭環境の優劣がその後の人生を決定づけるという価値観のもと、そうした出生主義的な社会を皮肉る若者言葉だ。
この言葉の示す世界観の正誤はさて置き、私はこの言葉に不気味さを感じる。それは、両親をガチャという機械になぞらえ、彼らを非人間的に捉える視点が明白だから。

「親ガチャ」という言葉では、親は機械に成り下がってある。社会システムや制度がガチャで、親や友人はそこから産み落とされたアイテム。
確かに高度化する社会は、人を量的・統計的なマス(匿名的な集合)へと追いやっていく。実際、人間はひとつの機械かもしれない。しかし、「あなたはただの機械で、代替可能なパーツに過ぎないんですよ」と直截に言うのは、侮辱でしかない。
「親ガチャ」と言う言葉には、人や人生を非人間的に、機械的に扱うぞんざいな視点が、明け透けにある。それがこの言葉の強さと不気味さを作っていると思う。


さて、ここに大きな社会課題がある。
一方では、社会の分業体制が高度に進み、人々はシステム化された役割を演じ、バーチャルな対人関係から安定した生活を送っていけるよう進む道がある。商品の受け渡しや、注意事項の説明など、限定的で一時的な会話、1対1ではない関係では、そうしたやり方で済ませられるかもしれない。
しかし、人生をかけた仕事を進めるとき、生涯のパートナーを選ぶときなど、長期的な関係を結ぶ場合、つまり人対人の関係が要求される場合は、もっと人間的なコミュニケーションが必要だ。
というか、AIではない人間の介在価値は、一般化するならそこにしかない。

人間的なコミュニケーションとは、冒頭述べた「上手いコミュニケーション」のこと。相手の状況を察知して、自分の視点を相対化すること。伝えられる側の感情や知識を正しく想像し、自分のメッセージを調整できること。
それを社会人力というなら、今、社会人力がない人々が増えているのではないか。仕事現場を遠巻きに見張り、不躾に声をかけるのはその典型だ。


コミュニケーションを学ぶ機会は、情報革命以前は不要だったかもしれない。対面での会話がなければ、ことが始まらなかったからだ。生活の中で自然に学習が進む。自分が何者で、相手が何者かを確認するコミュニケーションエチケットが、今よりずっと整備されていたのではないか。
今は、エチケットが無くてもやり取りできるように、システム化・制度化が進む。コミュニケーションの量が減れば、自ずとコミュニケーション能力は未熟なままだ。そして、今では未熟なコミュニケーション能力のままでも、自分の欲求に従い会話を始め、相手の状況お構いなしに権利を振りかざすやり方でも、ある程度社会が許容するようになっている。
note、ブログ、X、インスタライブ。人々が多く本音を曝け出すSNSは、1対nのコミュニケーションの場だ。店員とのやりとり、型に嵌められた会話、ゲームのインタラクションは、擬似的な1対1のコミュニケーションでしかない。それらにコミュニケーションのベースが置かれてしまえば、真に人間的なコミュニケーションを要する場面で、ぎこちなさが生じるだろう。

果たしてコミュニケーションを教えることはできるのか。
偉そうに語ってきたが、私自身、自分のコミュニケーション能力には課題を感じる。可能であるならより広く・深く、自分の思いを届けられるようになりたい。

コミュニケーションの講義は多くある。しかし、授業は1対nのやり取りだ。「情報」だけではコミュニケーション能力は伸びないと思う。

コミュニケーション能力は、「自分の言いたいことが伝わらない」という経験を通じてでしか伸ばせない。そして、その痛みを自覚したうえで、尚「どのようにすれば伝えられたか」と考えることができなければ始まらない。
なるほど。コミュニケーション能力が高い人が社会で重用されるのも頷ける。コミュニケーション能力が高い人は、自省的である可能性が高いだろう。

当人が自省心と克己心を持つとして、では「自分の言いたいことが伝わらないという経験」をどう用意できるだろう。
手っ取り早い経験としては、海外留学かもしれない。慣れない言語や慣れない文化に投げ込まれれば、"より真剣に"相手に向き合うことを始めるかもしれない。

そう、真剣なコミュニケーション。
相手をユニークな1人の人間として認め、定型的ではない自分の伝えたい言葉を持つこと。1人の人間と、長く、真面目に付き合う覚悟を持つこと。相手の考えることを真剣に読み取ろうとすること。その積み重ねでしか、コミュニケーション能力は育まれないのではないか。所詮、他人の心を覗くことは叶わない。だけど、到達不可能な課題に果敢に挑戦することができなければ、誰かひとりとでも、真剣に付き合うことはできないのではないか。
「情報」よりも「意思」。相手を想うことを忘れずにあることが、コミュニケーション能力を伸ばす最初の一歩になるのではないか。


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最後までご覧いただきありがとうございました!
先週に出産テーマの漫画を記事にしたのですが、出産・親ガチャと、つらつら連想が広がりました。
見直してみると、平田オリザさんの『わかりあえないことから』から大きく影響を受けてる気がします。
名著なので、興味ある方はぜひ。

これからも週に一度、世界を広げるための記事を書きます!
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また来週!


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