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「流行りもの」になんて、ならないで!

『全修』というアニメ映画の広告を見た。
技術はあるけど、コミュニケーションが下手な作画監督の物語。
こういうアニメ/マンガクリエイターの話、最近増えたなぁと思う。
「アニメ/マンガクリエイターの物語」=「クリエイター・ストーリー」として、パッと思いつく最近のだけで10はある(※1)。

その分野で働いている人が作るのだから、他の分野よりリアリティを込め、熱を入れて作りやすいのかもしれない。
加えて、今や誰もが自分の成りたい職業を目指せる時代。おたく文化に触れる人にとって、それが生み出される過程は興味ひかれるトピックに違いない。
誰が言ったか「マンガ家の作るマンガ制作マンガにハズレなし」。
供給/需要のマッチするクリエイター・ストーリーは、その分野で活動するクリエイターの試金石にもなっている。

このクリエイター・ストーリーブームを見て、ふと考える。自分の好きな分野が人気になることは喜ばしいことだろうか?
クリエイター・ストーリーを好きではあるけど、それが量産されていくことは望ましいことだろうか?

好きなクリエイターに大成してほしいと願うのは当然のことだ。自分が作ったプロダクトや、携わる分野に人が増えるのは良きことだ。
一般的に、そう考える。
私も、当然にして好きなジャンルに人が増えることを願う。

だけど、「流行りすぎないでほしい」とも思う。
贅沢にもそう思う。

ブームの負の側面はさまざまあるけど、この記事ではひとつだけ取り上げる。
それは「商業化の促進」という負の側面。


マーケティングは重要だ。
アイデアは使われてこそ意味がある。製品は使われてこそ意味がある。作品は大勢に知られてこそ価値がある。
納得がいく作品ができたとしても、次に繋がらなければ、「人生」という長いキャリアにおいてはプラスにならない。
『映像研には手を出すな!』での金森女史の重要性を見よ!

マーケティングは重要だが、重要なだけだ。
マーケティングそれ自体が手段となれば、途端にアートは失われる。
資本主義では、あらゆる活動はビジネスの側面を持つが、それはあらゆる活動の目的がビジネスであることを意味しない。

テレビ、ディズニー、ジャンプ、Vtuber。
最近、これらはあまりにマーケティングが上手くなり過ぎていると思う。
あまりに人が増えすぎて、組織が巨大になった結果、鈍重になっているように思う。
ここに挙げたクリエイター組織は、今なお独自のノウハウとパワーで、素晴らしいコンテンツを生み出している。とはいえ、かつてあったスピードと新規性は、もう滅多に見れないように感じる。


「良い」を定義することは難しい。難しいというか、文脈で異なり、人生観で変わるのだから、一般化できない。
だから数字に頼らざるを得ない。組織が一定数以上になると、無機質な数字に頼ることでしか「良い」の公約数を作れない。

ビジネスの場では、そのように「数字を共通言語」とすることに大きな問題はないと思う。
しかし、アートの場では、クリエイティブの場ではどうだろう?
組織が巨大になれば、アートのためのマーケティングがあるのではなく、マーケティングのためのアートに変わらざるを得ないのではないか?
リスクを取って、新しい手法に挑戦するのは危険すぎる。より多くに刺さるように、一般向けに尖っていた部分を均していく。組織の維持と成長のために、大して価値のないグッズ製作を進めていく。ファンの支持をエンハンスしていき、顧客単価を上げていく。そうした判断は、すべてそれ独自のアート・スタイルを毀損していくのではないだろうか。

だから、好きな分野が「流行りすぎないでほしい」。
数字に頼らざるをえない巨大組織ではなく、哲学で動く機動的なチームが、牽引できる規模であり続けてほしい。
面白い創作は、多数決にではなく、突出した個性の現れにこそあると思う。

主張を整理すると次のことだ。
好きとは、それ独自の輝き(アート)に魅せられた感情だ。そのアートが壊れないためには、一定の規模以上にならないことが大切ではないか。
専門的にはプロダクトライフサイクルとか組織論に類するテーマだと思うが、詳しくないので科学としては語れない。想像で好き勝手言っている。

主張するのは勝手だが、受け入れるかは相手が決める。
哲学とは、他者に押し付けるものではなく、自らが実践するものだ。
だから最後に、今述べた哲学を自分に当てはめ、実践する術を考えてみる。


自分が所属する組織と、活動するチームは違う。
所属組織が巨大化することはあるにしても、チームを正しく分割できれば、ルール(数学)でなく、アート(哲学)で動く環境を作りやすいのではないか。
人との関わり方について言えば、実践はさして難しくもない。

問題は、個人における活動にある。


人生はアートだろうか、ビジネスだろうか?
最もバランスの取れた答えは「どちらも欠かせない」になるだろう。
自分なりの哲学が発揮できなければ、人生は精彩を欠くだろうし、それが社会に認められない状態であれば、活力に欠ける。

インターネットは個人の発信を自由にした。
これは私のような”弱い個人”には朗報で、例え本業の社会活動(仕事)で十分なアートが発揮できないとしても、それを補うサードプレイスになりうる。
インターネットの現代的な魅力は、分からないこと教えてもらったり、日常の愚痴をこぼしたりに留まらない。自分のスタイル(アート)を解き放てるところにある。

とはいえ、注意しなければいけない。
インターネットの世界は、数字をあまりに簡単に視覚化できる。
いいね、フォロワー、PV。これらの特性は、アート/ビジネスの対立において、ビジネスに傾きやすい特徴を示唆している。
ビジネスのためのアートに傾けば、サードプレイスは戦場に変わる。


「流行りもの」になんて、ならないで!
そう言うのは簡単だけれど、実践するのは難しい。
自分自身を理解して、少しずつ社会との妥協点を探っていくしかない。
そう考えると、雇われとして働くビジネスの場は簡単かもしれない。私しを殺して、仕事に没頭できれば評価される。一方に振り切れるのは、両方を選び取るより簡単だ。

個人の活動における、アート/ビジネスのバランシングの実践。
片方に倒れることは楽だけど、バランスを取るには、現実を追い続けるしかない。
難しいからこそ、それが出来ている人に憧れてしまう。
個性と共に成果を発揮している人に、私は惹かれてしまう。

常に原点を思い出して、修正し続けようともがくこと。
自分の形を、抑えつつも発揮していくこと。
その最適の形を探り続けて、自分のアート/ビジネスのバランシングを進めていきたい。


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最後までご覧いただきありがとうございました!
もう少しスッキリした結論を出したいなと思いましたが、ちゃんと自分に当てはめ考えるとグチグチになってしまいました。

最近、経済学者のナシーム・ニコラス・タレブさんの本を読んで、理論と実践の違いに思いを馳せていたからかなと思います。
ちょっと大人になれるいい本ですのでオススメです。

これからも週に1回、世界を広げるための記事を書いていきます。
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どうぞ、また次回!


※1:クリエイター・ストーリーは最近のだけで10作品はある:『ルック・バック』『映像研には手を出すな!』『かくかくしかじか』『これ描いて死ね』『アオイホノオ』『バクマン』『SHIROBAKO』… 10作品も無かった(もっとあるだろうけど出てこない)

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