見出し画像

自分のルーツを探して(台北・九州・・・祖母と父の暮らした風景)

こんにちは、みたびです。この夏、父の、そしてその子である僕のルーツをたどって、福岡県を旅してきました。旅程はこうです。

  • 1日目・・・北九州市門司区(門司港周辺)

  • 2日目・・・田川市周辺(石炭博物館)

  • 3日目・・・行橋市周辺

  • 4日目・・・行橋市周辺

目的は、ずばり自分の中に流れている風景を、ルーツとして洗い出す事でした。きっかけはアニメ「スキップとローファー」で、第9話、主人公の女の子が故郷へ里帰りし、起きがけに母親の出してくれたスイカを食べて、寝ぼけながら頭の中に故郷の風景を映し出している、そんな情景に憧れて、興味本位でです。自分も同じことがしたいと思ったのです。

田川市の炭鉱竪坑跡 石炭博物館内にて

さて、かつて、石炭の産出と積み出しで栄えた、福岡県は筑豊・北九州地方。
戦後エネルギー革命前夜に至るまで日本最大の産出量を誇った筑豊炭田は、日本の富国強兵を表から支えました。

一方で、過酷な労働や、戦前の朝鮮人強制連行など過酷を極める状況がそこにはあります。正の側面も負の側面も両方見つめない事には、物事を見つめたという事実は成り立ちません。

そんな福岡県の栄華を極めた筑豊から、山をひとつ隔てたところにあるのが京都平野。京都と書いて「みやこ」と読みます。ここに、父と、父の母(つまり僕の父方の祖母)の暮らしていた家(父の実家)があります。

京都平野は災害に強く、洪水も少ないためか川に高い護岸がありません。川の畔に行けばすぐに河床を臨むことができる、非常に穏やかな空気の流れる地域です。

平成筑豊鉄道からの車窓

祖母には、小さい頃からとてもよく可愛がってもらいました。当時横浜に住んでいた僕は、両親の不在時に、同じ町内に暮らしていた祖母にしばしば預けられていたのです。

戦前、外地の台湾・台北生まれの祖母はいつからか九州を離れ、横浜で暮らしていました。東京の大学を出た影響もあったのでしょう。

そんな祖母がかつて暮らしていた父の実家に、小学生の頃一度泊まりに行ったことがあるのですが、オンボロで雨漏りのする、お化け屋敷のような家だった印象があります・・・。この家を管理する方に飼われていた柴犬と鶏が妙に記憶に残っています。

そんな実家と、祖母。それらがどうにも結びついていなかった子ども心。祖母は僕に九州や台湾のことを語ることはありませんでした。それゆえ僕は九州に囚われずに暮らしていくことができたのですが・・・。

九州は、父にとって因縁の土地であったことを後に聞くのですが、それは祖母にとってもそうだったようで・・・。昨年亡くなるまで、ついぞ祖母から過去の話は聞かれませんでした。

かつて我が家(父方の実家)は地域の名家で、その地域でとても「大きな顔」をしてきた、表現が正しいならばそんな存在でした。

父はそんな家の分家に生まれ、分家と本家のやりとりを心底くだらないといった風に見ていたようです。そこに嫁いだ祖母もまた、そのパワーゲームに無縁ではいられなかったのだと思います。そこに笑顔で向き合うことが難しかったから、無垢な子どもの僕に語ることはなかったのでしょう。

パワーゲームは、しょせんどこまでもいってもパワーゲームでしかない。そこを見ても、表層でしかないと父は言っていました。その通りだと思いました。

また、祖母は時代の趨勢に翻弄された人もでありました。台北から親とともに中国に渡った祖母一家は、実業で財を成しました。しかし日中戦争終戦後すべてを失い、北九州へ引き上げ。その後も戦後の混乱の中を生き抜いています。そんな中で父の父(僕の祖父)と出会い、父を産んでいます。

では、表層の下には土台として何が埋まっているのか。

ひとことで表せば、それは京都平野という地域が持つ土地のパワーでしょう。

どれだけイオンやコストコが出来ようが、ロードサイド店が賑わおうが、工場が出来て開発が進もうが、どれだけ街が着飾っても土地のパワーとは無関係です。土地のパワーとは、地域の人間関係を形作る、水・大地・風の一体となった流れです。その上に我々は生かされているにすぎません。

日本各地において、東京への一極集中と、同時進行でヒトモノコトの平板化が進んでいます。日本のどこを切り取っても、同じ顔をしたチェーン店が並びます。

父は土地のパワーを取り戻すため、お祭りの再興を目指していたりします。

夕涼みの最中、カエルと目があった。

ここまで考えて、残念ながら、東京育ちの自分に、九州の奥深くまで浸透するような、主観的な「身体性」はないのだと気付きました。どこまでいっても九州は、うだるように暑い夏の国といったイメージで、東京と比べてしまう時点で異国の観がぬぐえなかったのです。

ですが同時に、この旅を経験したことで、確実にこの土地のパワーが自分の中に流れているという微かな感覚を、取り戻すことができたような気がします。

旅行の最終日、父が嫌いだった風景と、好きだった風景を見させてもらいました。嫌いだったのは、かつてその地域の国立大学(=九州大学)進学者を機械的に作り出すために存在していた、日本各地によくある公立進学校。そして好きだったのは、京都平野を象徴するような穏やかな時間の流れる小川と、そのまわりに広がる田園風景と駅。


平成筑豊鉄道からの車窓その2

この田園風景、実は旅行2日目に何気なしに「いいなあ」と撮影していた鉄道の車窓と同じ風景だったのです。物事の本質を同じく見ていたのだなと、感慨深くなりました。

同時に、父に導かれて、ようやくこの地域の仲間入りを果たせた、そんな感覚もありました。

燃え盛るような、うだるような九州の暑さ。父の嫌いだった風景、好きだった風景・・・。

この旅では父とはあまりたくさんの言葉は交わせませんでしたが、これは親子の絆という、単純に表現できるだけのものでは、どうもないようです。
父の知らない側面を、たくさん知ることができたのは確かです。

我々は、一人ひとりが神ではない、人間に過ぎない弱い存在です。それゆえに、一人ひとりに生き抜くためのドラマが備わっているのだと思います。

それを紡ぐうえで、故郷の景色というのは心に咲かせておく必要があるのだろう、そう思いました。

そして、時代の趨勢から、人は自由ではいられないことも合わせて学びました。特に第二次世界大戦前後は、個人にでは逆らえない時代の流れがあったことと推察します。

そうした世の中を生きてきた祖母にも、この文章を捧げたいと思います。その人生に敬意を表して。

今回は分かりづらい話で申し訳ありません。これを公開するのは父との約束だったのです。ファミリーヒストリーの一つして捉えていただければ。

父の見てきた風景

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?