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操作されるのはスマホであって私じゃない。情報で肥え太らないためのダイエット作戦

テレビばっか見てると頭悪くなるぞ!みたいな風潮が昔はあって、親にもそんなことを言われていた。

あーこのお笑い番組ばっかり見てると自分も同じようなことしちゃうようになるからかぁ〜とか子どもながらに考えていたと思う。

社会科の教科書に「現代は情報社会」だとかなんとか太字で書いてたのだけれど、あれを見てピンと来たことがなかった。

だって、物心ついたときからテレビはもちろんインターネットもあって、
小学生の頃にはパソコンがあって掲示板も見れたし、
中学校になったらケータイでメールしたり、
分からないことはヤフーで検索してた。

いつの間にかスマホを持つようになって、ただの画面なのにあの頃より何倍も夢中になって何倍の時間を溶かす大人になってしまっていた。

お供だった本をよそに朝起きてすぐに手が伸びる先はスマホになった、
片手でスクロールし続けるからランチの味は覚えてない、
ブルーライトは良くないらしいけどこの子のツイート辿りきるまで寝たくない、

初めてケータイを手にしたあの頃から十数年も経ち、大人のクセに昔よりもその使い方が分からなくなっている。

いつの間にか頭も身体も重たくなる、やる気なんて1ミリも起きない。

かと言って夜は眠くないけど少しだけ寝てみる、起きたところで不定形生物のような自分に違和感すら持たなくなった。

ヨガとか読書とか英会話とか、なんなら飲み会に行くよりも家でポチポチしていた方が楽だ。

自己実現とか創作意欲とかはどこかへいったまま帰ってこない。



そ、そういうことかーーー!



高カロリーなものばかり食べて、いつの間にか肥え太り、身体が軽快に動いてくれないような感覚。

情報が堆積して、脳が身軽でなくなってしまった。

くだらないものを先に頭に入れまくったせいで、自分のための活動やひらめきに頭が仕事をしてくれない。

自分のことなのに自分で考えられない、少しずつ頭が悪くなっている感覚がした。

テレビばっか見てるとバカにになるぞっていうのは、そういう意味だったのか。

画面の言いなりになって、本来自分の足で歩いていく我が人生を乗っ取られるなんて絶対に嫌だ。

そこで、スマホに操作される人間にならないために私はいろいろ試してみた。




キッチンタイマーを使う

目から美しさを吸収できるんならとっくに世界四大美女になっている私。

無限スクロールして延々と可愛い子を見続けても自分が可愛くなれるわけじゃないのだ。(自戒)

だから私は1回のスマホタイムを15分に設定するようにした。

可愛い人を見続けても可愛くなれるどころかストレートネックが進行するだけ、むしろ可愛いからどんどん遠のいていくのだ。

しかも、ずっと見ているとそれが模範解答に思える催眠にかけられてしまう。

別に今の顔で今まで幸せに生きてこれたじゃないか、今さら急に躍起になってチャイボーグの目や鼻を目指す必要なんてない。

ちなみにここは敢えてアナログな形にしたいのでキッチンタイマーに。

キッチンタイマーも充分デジタルなはずだけれどアナログカウントしたくなるほど、スマホがデジデジしているから。




ながらをしない

昼休み、頭で思うのも追いつかない速さで欲求が自分を急かす。

右手に箸、左にスマホ。

1,000円前後支払って、得られるのは胃袋に8割ほど充填される感覚だけ。

食べているのに味気ない。

生きるか死ぬかを懸けて必死に獲物を喰っていた私の奥底にいる大昔の野生が、片手間でそれを済ませられてる目の前の事象に拍子抜けして小さなバグを起こしているのか。

血にまみれないで済んでいる今の私に何とも言い難いもの悲しさを感じさせているのはそのせいかもしれない。

具材の色を見て、咀嚼音でリズムを取って、ぼーっと景色を眺めて、おいしー。とだけ思っていればきっと胃袋だけでは満たせない物足りなさなんて感じないはずだ。

ながらスマホでの食事をやめてみると、五感ひとつひとつを正しく使うことはこんなにも気持ち良いのかと気づいた。

情報と味わいは同時には取りに行けない。

カフェに行ったら一生懸命に撮影する労力を、実物がいちばん綺麗で可愛いケーキを目でも舌でも味わうことに使いたい。

ジョッキを持たない方の手で乾杯を回し撮るよりも、のちに年代ものにもなる青春の一瞬をその場で味わった方が良い。

あくまでながらスマホのつもりだったけれど、本当はながら食事、ながらカフェ、ながら乾杯のような虚しいことをしてしまっていたかもしれない。




クローゼットに封印する

無。でいたつもりなのに目の前にインスタアプリが開かれているのに気づいて我に返る。

私の意思が身体に指令を出す前に勝手に指が画面をなぞっていた。

他人の活動や思考をリアルタイムやなるはやで知っておかないと自分に何か損があるというわけでもなんでもないのに。

作業に集中しているつもりでも、視界の端にある黒い箱の存在感は大きい。

真っ暗なはずの小さな画面に未だ見ぬ知らない景色がたくさん詰まっているんじゃないかと心が突っつかれる。

最新アイテムなんて知る前からもう幸せだったのに、ついさっきまで知らなかったそれは、可愛いから、欲しいかも、になる。

満ち足りていた自分がほんの数秒で、もの足りない自分になってしまう。

いま生きてる一瞬一瞬は私のためのものだ。

誰かにいいねを配るために私の寿命を消費されてたまるか。

AIの歯車になってたまるか。

私の自己肯定感はアルゴリズムの道をもぞもぞと移動し、誰かの自己肯定感として吸い取られる。

そんなものは存在感を感じられないくらい遠いところに閉じ込めておかなきゃ私は私を守れない。



ひとたび画面に映る求めてもいないものを目にすると、自分がなんにも持っていない人間に思える。

ほんとだ、教科書に書いてたとおり今は情報社会という名がつくほど今までに比べて異常に情報が溢れてる時代なんだ。

こちらから情報を選び取りに行っているはずなのに、いつの間にか情報を浴びせられ「受け」になるよう誘導されてしまっている。

受け身ベースの脳にされた上に未知のものを知れるという快楽に報酬系がやられ、こちらが操作するはずのものに、逆に操作されるようになってしまっては、たまったものではない。

受動的でいることはエネルギーが要らなくて楽だけれど、最新情報の売り込みに毒されずに自分が既に持っているものまでスクロールしてしまわないように立ち止まって丁寧に見つめていきたい。


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