見出し画像

ジョージ・マロリー「Because it's there」の it はエベレストではない

有名な言葉があります。登山家・ジョージ・マロリーの「Because it's there」です。
日本語では、だいたい「そこに山があるから」という形で広く知られています。

たいていの場合、
「どうしてそんなことをやるの?」
と聞かれて説明がめんどいな、というときに引用される言葉です。
「どうして~」は、危険だったり、利益が出ないどころか赤字だったり、あるいは他人にはまるで良さがわからないジャンルにハマっている人に投げかけられる質問です。
それに対する答えも、結局は
「なぜなら、やりたいから」
でしかないのです。
「Because it's there」は、このうんざりする問答を終わらせる切り札なのです。全人類はマロリーに感謝せよ。

さて、この「そこに山があるから」という訳が誤訳であるという説も、近年よく知られるようになりました。

なぜならウィキペディアにそう書いてあるからです。
この言葉はエベレスト登頂に挑戦する前のインタビューが出典であり、「Because it's there」の「it」とは当然にエベレストのことであり、山全般を指しているわけではないと。
ジャーナリストの本多勝一氏は「世紀の大誤訳のひとつではあろう」とまで酷評しています。

> アングル語(俗称「英語」)を勉強したことのある者なら初歩の初歩でもわかる間違いにすぎない


ですって。なにもそこまで煽らなくても。
とはいえ、私もウィキペディアの記事を最初に読んだとき
「そうか、原文は「Because it's there」なら、it を「山」と訳すのは意訳しすぎだし、まあ普通に考えてエベレストのことだよな」
と思いました。

それから数年。つい先日、ウィキペディアの記事を再読して、なにか違和感がありました。
気になったら調べましょうの精神で、出典であるNYタイムスの原文を読み、ついでに本多勝一氏の著書も読み(だから引用しています)、確信しました。この it はエベレストのことではない、と。

その根拠は単純です。英語の初歩の初歩さえ学んでいなくても、明確に否定できます。原文の、まさにそのくだりを見ましょう。出典はNYタイムス1923年3/18日のインタビュー記事

http://graphics8.nytimes.com/packages/pdf/arts/mallory1923.pdf

インタビュー記事_part1

> "WHY did you want climb Mount Everesut"(あなたはなぜエベレストに登るのですか?)

という質問への答えが

> "Because it's there."(なぜならそれがそこにあるから)

です。本多勝一氏は

> 「それ」とはチョモランマであり、より正確に言えば「まだだれも登頂していない世界最高峰」である。二番目以下の標高の山でもなければ、二回目以後の登頂を目指す行為でもない。<だからItと大文字で強調されているのだろう>

と書きました。よく見ればわかりますが、it の は印刷がつぶれてるだけで小文字です。これを大文字としたのは本多氏の記憶違いか、本多氏が参考にした文献の著者の見間違いです(本多氏がこの主張を最初に述べた1955年の当時は、インタビューの出典がわからなくなっていました)。

さて、では、なぜ it をエベレストと訳すのが間違いだと私は主張するのでしょう?
なぜなら、
it がエベレストなら、there(そこ)ってどこのことよ?」
となるからです。

インタビュアーは
「あなたはなぜエベレストに登るのですか?」
と質問しているのだから、there(そこ)とはエベレストでしかありえません。

だから、it をエベレストと訳してしまうと
「あなたはなぜエベレストに登るのですか?」
「なぜならエベレストにはエベレストがあるからだ」

となります。ますますふんわり表現じゃないですか、ヤダーッ。

こんな訳では「そこに山があるから」よりも意味不明なのです。世紀の大誤訳のパワーアップですよ、こんなの。

マロリーがレトリックとしてそういうハッタリ表現をした可能性もゼロではないでしょうが、原文を読む限り、その解釈はできなさそうに思えます。" Because it's there."に続いて、マロリーはいかにもヨーロッパの教養人らしい、論理的な説明をしているからです。


きちんと原文に当たりましょう。ぜんぶ読む必要はありません。
冒頭、ふたつの段落だけで充分です。

インタビュー記事

WHY did you want to climb Mount Everest?" This question was asked of George Leigh Mallory.
who was with both expeditions toward the summit of the world's bighest mountain.
in 1921 and 1922, and who is now in New York.
He plans to go again in 1924, and he gave as the reason for persisting in these repeated attempts to reach the top.
" Because it's there."
" But hadn't the expedition valuable scientific results?"
"Yes. The first expedition made a scological survey that was very valuable.
and both expeditions made observations and collected specimens, both geological and botanical,"
The geologists want a stone from the top of Everest.
That will decide whether it is the top or the bottom of a fold.
But these things are byproducts. Do you think Shackelton went to the South Pole to muke scientific obervations?
He used the observations he did make to help finance the next trip.
Sometimes science is the excuse for exploration.
I think it is rarely the reason.
"Everest is the highest mountain in the world, and no man has reached its summit. Its existence is a challenge. The answer is instinctive, a part. I suppose. of man's desire to conquer the universe."

印刷のカスレや潰れは適切と思われるものに筆者が修正し、適時改行を行いました。

さて、訳文は本多勝一氏と沖津文雄氏による共訳があるので、それを引用します。

訳文_resized

(出典 本多勝一『「日本百名山」と日本人』)

> <本文>「なぜエベレストに登りたいと思ったんですか?」|ニューヨーク滞在中のジョージ = L = マロリー氏に本紙はこう尋ねた。世界最高峰の登頂をめざす登山隊に去年と一昨年も加わ ったマロリー氏は、来年も加わる予定だ。こうも執拗に挑戦をくりかえす理由を彼は答えた。 ー「なぜなら、それ(エベレスト)が在るからです」(Because It's there.)
> さらに「しかし学術的な成果はあったんでしょうか?」と聞くと、マロリー曰く―― 「もちろんです。一昨年やった最初の登山隊は地質調査で貴重な成果を得ました。去年とあわせ ると二回とも地質・植物を調査して関連標本を採集しました。地質学者らはエベレスト頂上の石 を欲しがっています。それによって頂上が摺曲構造の上か下かわかるからです。でもこうしたこ とは副次的な目的にすぎません。シャクルトンが南極点をめざしたのは学術調査を目的としてい たでしょうか? 彼は次の探検計画の資金集めのために調査もしたのであって、主目的はあくま で南極点初到達です。科学を探検隊の活動の弁明にすることはよくありますが、それを主目標に する例は少ないと思います。」
> 「エベレストは世界最高峰です。しかもまだ誰も頂上に登った者はいません。存在自体が挑戦な のです。思うにこれは本能的なものであって、この世の天地万物を窮めたいという人間の本性の 一面ではないでしょうか」

どうでしょうか。
逐語訳すれば
「Because(なぜなら)it(それ)is(ある)there(そこに).」
であって、thereがエベレストであることは文脈上、ゆるぎません。

" Because it's there."だけに着目せず、二番目の段落まできちんと読めば、彼の主張は明白です。
どこにも謎めいたところはありません。

シャクルトンとは南極点到達に挑んだ冒険家、アーネスト・シャクルトン。アムンゼンとスコットの競争の影に隠れていまいち知名度がありませんが、アムンゼンが南極点に到達する以前は、もっとも南極点に近づいた人間でした。

マロリーはシャクルトンを引き合いに出して
「彼が南極を目指したのは、南極点初到達のためだ(誰もまだそれに成功していなかったからだ)」
と言い、
「前人未到の地を征服したいというのは人間の本性の一面なのだ(私がエベレスト初登頂に挑む理由も、それである)」
と述べているのです。

ですから" Because it's there."の it は「前人未到の地」あるいは「前人未到の最高峰」です。
there こそがエベレストです。
したがって、" Because it's there."は
「なぜなら、前人未到の最高峰がエベレストにあるからだ」
が正しい解釈になります。

ではここで、このエッセイの最初のほうで引用した本多勝一氏の言葉を思い出してみましょう。

> より正確に言えば「まだだれも登頂していない世界最高峰」である。二番目以下の標高の山でもなければ、二回目以後の登頂を目指す行為でもない。

なんと、本多勝一氏は正解に辿りついていたのです。
「二回目以後の登頂を目指す行為でもない」のであれば、「まだだれも登頂していない世界最高峰」と「エベレスト」がイコールにならないと、どうして気づけなかったのでしょう。
ともあれ、氏は正解を発見していながら、誤った訳を結論にしてしまいました。
" Because it's there."の訳が「なぜなら、「まだだれも登頂していない世界最高峰」がそこにあるからだ」では、長すぎると思ってしまったのでしょうか。

まだ一次ソースが見つかっていなかった時代に正解に辿りついて、一次ソースが見つかったのちに自分でそれを訳しておきながら、足を踏み外してしまった。考えさせられますね。

ところで、マロリーは
> 「エベレストは世界最高峰です。しかもまだ誰も頂上に登った者はいません。存在自体が挑戦な のです。思うにこれは本能的なものであって、この世の天地万物を窮めたいという人間の本性の 一面ではないでしょうか」
と言っていました。
してみれば、
"Because it's there."

「なぜなら、そこに挑戦があるからだ」
と意訳してもよさそうです。

だとすれば、広く世に知られた
「なぜなら、そこに山があるからだ」
も、いわゆる一般的な山のことではないとはいえ、挑戦の比喩として「山」を用いていると考えれば――

そこまでひどい訳でもないと思うのです。

結局、マロリー自身は明確に説明しつつも、同じ質問をくりかえされてうんざりしたマロリーが、あえて「それ」「そこ」という代名詞を使って、質問者が「それ」と「そこ」へ自分の期待する答えを勝手に代入して一人で納得してくれるような答えを作ったのだという推理が正しいような気がしますね。


> 『日本百名山』と日本人―貧困なる精神T集 | 本多 勝一 |本 | 通販 | Amazon https://amzn.to/3HbsosG


> K(ケイ) (アクションコミックス) | 谷口ジロー | 青年マンガ | Kindleストア | Amazon https://amzn.to/3F3OgV8


- - - - - - - - - - 

この記事は筆者のpixivFANBOXからのセルフ転載記事です。

> [エッセイ] ジョージ・マロリー「Because it's there」の it はエベレストではない|桝田道也|pixivFANBOX https://mitimasu.fanbox.cc/posts/2988722

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?