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【プロフ-1】高校家出編/セミは土の中で7年①+ noteをやる目的

■なぜ親というものはああも理不尽で勝手なのか?

17歳の春休みに家を出た。親はいつも言う「文句があるなら出て行け」って。バイトくらいしかしていない自分に「出て行く選択肢」が無いのに、出て行けという。いつも思っていた、卑怯だ、と。高2の時も、高1の時も怒られる時にいつも切り札のように言われる。気持ちは「絶対出て行ってやる」なんだけど、でも現実的ではない。

僕だけではなく子供時代の僕らって、親の両方と折り合いが悪いことはなくて、たいていは片方とよろしくない。僕は母親と折り合いが悪く(というか僕が母親そっくりなのです)父親が味方だった。

バイトして金貯めて準備した。次に出て行けと言ったら「わかった、出て行く」と言うと決めていた。そしてそれが17歳、高3になる前の春休みだった。小さな4畳半一間、トイレ・流し共同というアパートを父親に契約してもらって、出て行った。

パワハラとかモラハラとかなんやらハラが問題になる現今、構図は一緒だと思う。選択肢を奪われた側に好き放題やるし、奪われた方はやられる。これを僕は卑怯と思う、と書いた。

だから、卑怯な人間ではありたくない、とその後の生き方として、選択肢をこちらが持っていて、相手方が持たない時にこそ、こちらは選択肢行使を発揮しないという選択をして、相手が選択権を持てる力をつけることを応援したり、サポートしたり、願ってきた。

逆に選択肢がないなら、力をつけないといけない。その場から移動する選択肢はあるはず。だれも頭に銃を突きつけて「この会社で働け」などと言っていないのだから。選択肢がないことでハラスメントされるなら、移動する力(金・実績・ビジネスの力など)をつける。ハラスメントしている「パワーサイド」にも問題があるかもしれないが、そうされている「弱い選択権のない人生を選んでしまっている自分」を客観視できるかどうかだと思う。

高3の学費も自分で納め、バイトはラーメン屋のバイトを18時〜26時までして成り立たせた夏休み、ちょうど、これを書いている今くらいの暑い頃、同級生は、塾、予備校の進学夏期講習の時期だった。「そうなんだ、もう受験なんだ!」と知ったけれども、僕は毎日バイトバイトバイト。

今もそうだけど、

■「選択権の無い状態」というのが本当にイヤだ

そんなにだいそれた人生ストーリーや語れるものはないけれど「選択権が無い状態にひれ伏す感じ?」みたいなのがイヤだった。

選択肢が無い状態からどうにかして、脱出することに挑戦していないことに気が付いているか、気が付いていないかって大きな差なんです。もしも気が付いていれば、もがいたり、努力したり、「今、たった今」は選択権も選択肢もないところにいることに甘んじなければいけないかもしれない。でも、そこから脱出しようという取組を始める選択肢はある。気が付いていない場合は、特に不満もなければ、不幸感もないので、いいのではないかと思う。

進学校ぽい学校でみんな受験するみたいだし、、、と言う夏休みは自分は生活費の稼ぎ時でまだまだ受験なんて考えられなかった。でも、仲のいい友達は「この夏休みで差が付く」らしく、みんな予備校に行くとか。受験を意識したときから「今、こんな生活=一人暮らしで生活することで一杯一杯、を選んでしまっているから大学に進学するという選択肢が無い」ってなってしまいそうなことがイヤだった。

考えた。問題は金だ。

どうすれば、学校、受験、生活を成り立たせられるか?バイトしまくって生活できても、学校に行かなくなって留年とかは「負け」なのであり得ない。大学受験を「しない(選択せずに)」のも負けなのでイヤだ。でも金は稼がないと暮らせない。

決めた。受験もする、留年はしない、金も稼ぐ、受験の終わる日までの金をあらかじめ稼げばいいじゃないか。


■振り返ればこの頃から「戦略志向」だった

留年は成績以前に出席数なので、年度初めにもらった一年の行事予定表を穴の開くほど、見て、研究?分析して、1/3の以上休む回数は何回なのかすべての科目で算出した。そして、その1/3ギリギリの日数バイトしまくりました。そして受験することにしました。

予備校なんて行けないから、受験のある2月から逆算して、勉強に集中するためにバイトをやめる日を決め、その通りにバイト先に伝えて、バイトをやめて、夏から秋にためたお金を週単位で切り崩して、2/3以上の出席になるように学校に行った。


■4畳半一間の部屋には布団とこたつだけ

とテレビだけ。今はもう、全然見ることのないテレビだったけど当時はテレビは生活の一部。そのテレビに大きくガムテームで×をして、電源を抜いて布団の上にこたつをのっけてはんてんを着てこたつは電気を入れずに勉強。

眠くなったらそのまま後ろに倒れる。ちょっと寝たらまた、起きて勉強。飯は近所のほか弁か、食パンと缶詰。受験の終わった日からまた、バイトをすることを伝えていたので、そのバイトをした給料をもらえる日までが僕の貯金を切り崩して受験をする「兵糧」でした。

受験直前の3週くらい前にほぼお金は尽きて、たしか最後の2週間くらいは8枚切りの食パン1斤/1週間。週は7日なので最後の日曜日だけ2枚食べられる。マーガリンとコーヒーシュガーをかけた食パンラスクみたいなのを1日1食。

それがやりきれたのも「大学に行ける選択肢がなかった」となるのがイヤだった。受かって行くか行かないか決めるのは自分でありたかった。今もこの20年くらいのビジネス人生も、常に「選択肢の確保のため」だったと思う。

その後の人生でもお金がないと生活の選択肢がないのがイヤだった。車に乗る乗らない?都心に住む、住まない、田舎に住む住まない?旅行に行く行かない?あれとこれがトレードオフみたいなのもイヤだった。あれをするならこれをあきらめようよみたいな。

大学受験が終わって速攻でバイトを再開して少しして発表を見に行き、受かっていた。当初のとおり「家を飛び出て一人暮らしなんかしていたから大学にも行けない」という一択状態がイヤで受験したわけだから、行く気は全く無かったわけです。

その旨父親や担任に報告したら「行け」と。というか、なんだか説得の登場人物が一杯出てきた気がする。曰く「落ちて行けないやつもいる」とか「大学くらい出ておかないと」等々。

諸々の中で心電図がビビビと来たのが「行ってからやめるという手もあるだろう」と。そうか、それは選択権を手にすることだ。しかも金は出す(いや、貸すからだったか、定かではない)からというので行くことにした。

何をしたいかわかっていなかったのに大学なんか行って何になるんだと思っていたけれど、当時興味があったのが宗教。大学で印象に残っているのは、これを書きながらも何も見ないで思い出すのが「尹先生」(だったはず)の

■「ウパニシャッド哲学」と「宗教学」

だったかな。それ以外は英語を大講堂で受けたり、体育をやるのか!大学って!もう、馬鹿馬鹿しすぎて&稼がないと生活があるので一学期?前期っていうの?で行かなくなって、バイトに明け暮れて、、3年で中退しました。

この頃のバイトの仕方は以後の「起業家・事業家・経営者」としての僕の働き方、あり方を規定してくれる体験がたくさんあった。それはまた、別記事で書きます。後日語れるように、体験したバイトをくくっておきます

朝4時起きの道路掃除、メッキ工場、ファミマ、ガススタ、ヤナセのディーラーのデポでの出庫、警備員、ホストまがいのパブ、八百屋、薬屋、肉屋、スーパー、配膳協会でホテル宴会・結婚式場・高級リゾート・高速道路のSAのレストラン、朝早くに仕事をもらう日雇い人夫からの鳶職、海の夏休み限定のライフガード、etc。昔数えたとき30位あったけど思い出せないのがいくつもある

そうそう、高3の2学期バイトしまくりお金が貯まって学校に行ったら社会の公民だか世界史だかの先生に呼び出されまして、出席日数が足りない、と。え、そんな訳ない、計算し尽くしているのに?

あらためて聞いたらその先生がご自身が考古学の専攻だかで、発掘のために「公休」というのでしょうか、年度初めには予定していなかった「発掘」で2回お休みだったので分母が変わって、分子の出席数が「1」足りなくなってしまった、ってことでした。

どうやってクリアしたか?の方は全然覚えていませんが、テストの点数はきっとよかったのだと思います。多分。余談ですがその頃、勉強という言葉が嫌いだった。高3の通信簿は毎学期自分で買った印鑑を自分で押して、学期のはじめに持って行った。

その通信簿の裏に書いた「勉強するものではなくて、学習するものだろう」って。先日、久しぶりに試したストレングスファインダーの1位がLearner、学習だった。

■一生、学習していられたら幸せだと思う。

ただ、本当の地頭がいいわけではないので、企業の研究所とか学府での教授とかそんなのに「なれるわけがない」と思っていたので、20代にのめり込んだのは「いかに成功するか」「事業で成功するか」「金持ちになるか」だった。

そうそう、その頃、付き合いたいと思って映画に誘ったり微妙な「由美ちゃん」に「みんな、これからどう生きたいのかとか全然考えていなよね」みたいなことを言ったら「みんな西田君みたいじゃないよ」って言われたのを書きながら思い出しました。


■高校生の時どうなりたかったんだろう?みんな。

僕はどうなりたいはあんまりなかったけど「どうありたい」は強くあった「気が」します。今風な言い方をすれば僕は「WHY」どうありたいか?どう生きたいか?はすでにあった。でも、どうすれば、そうなれるのか「how」が無かった。あり方(なんて言葉は当時は知りません)がしっかりしていれば、何者にかはなれるような気がしていたのかしれません。

そして、その後、大学〜20代前半、後半、どうやってを知らなかったために20代にのめり込んだのは「いかに成功するか」「事業で成功するか」「金持ちになるか」だったにも関わらず、しかも学ぶのが好きでめちゃくちゃ学んでいるのに、幸せなはずなのに、でも、結局

■お金にも苦労し、選択権なんて無い20代

を送り続けることになりました。今の僕が教えてやりたいです。WHY、そしてHOWを。「大事なんだよな、HOWって。」

このくらいの世代〜20代と、その後のビジネス人生を1周回、2周回と回ってきた自分とのつながり、共通点、違い。変わったこと、変わらなかったことは何で、そして自分の「principal」にぶれずにやってきたことを言葉にしていこうと思っています。

それこそが1周回目では、はじめての体験でわからないことだらけだった、気がつけなかったことに、これからの2周回目では通底することと、意識して取り組んできたこと、「やったこと・やらないと決めたこと」「あり方・やり方」が「世間のではない自分自身の絶対的な【成功】」とどうつながっているのだろう、をひもといていけそうなことにわくわくしています。

そして、僕の得意技の一つ、「個々人のできごと」を「客観的・普遍化・標準化し「ルール化」「法則化」もしくは古今すでにある「成功法則・成功哲学」の現場での活用の「仕方」を解説していければと思っています。

mits・西田光弘



プロフィール全部一気読み!! 全7本 20000文字超 
読み応えおなかいっぱいです(笑)








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