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温故知新(31)菊理媛尊(白山比咩大神 九頭龍王 豊玉姫命) 久久能智神(牛頭天王 須佐之男命) 庵戸宮(廬戸宮) 大屋毘古神 シバの女王 委奴(伊都)国 徐福   

 龍に代表される黄河文明の吉数は九で、鳳凰に代表される長江文明の吉数は八か六であるといわれています1)。安田喜憲氏は、日本で龍が登場するのは、王権が誕生する弥生時代後期になってからで、初期の稲作をもたらした人々は龍信仰を持っておらず、太陽と鳥を崇拝する人々だったと推定しています1)。また、龍を描いた土器片が出土する遺跡が、瀬戸内海東部から近畿地方に集中していることから、龍の文化が王権の成立に重要な役割を果たしたと推定しています1)。

 和泉市にある池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃(紀元1世紀頃)の環濠集落で、S字状の胴部と三角の突起を持つ龍が描かれた壺が出土しています。池上曽根遺跡とメンフィスを結ぶラインの近くには、牛頭天王の総本宮の廣峯神社、岡山県奈義町にある瀧神社(奥の院)、弥生時代の集落遺跡の妻木晩田遺跡(鳥取県西伯郡大山町)、三穂津姫命と事代主神(えびす様)を祀る美保神社(松江市)があり、ギョベクリ・テペと池上曽根遺跡を結ぶラインの近くには、阿波、那岐山八幡神社(厄除八幡宮)があります(図1)。池上曽根遺跡は須佐之男命と関係があると推定されます。

図1 池上曽根遺跡とメンフィスを結ぶライン(下)と廣峯神社、瀧神社(奥の院)、妻木晩田遺跡(鳥取県西伯郡大山町)、美保神社(松江市)、ギョベクリ・テペと池上曽根遺跡を結ぶライン(上)と阿波、那岐山、八幡神社(厄除八幡宮)、箸墓古墳

 江ノ島は、モンサンミシェルに似ていますが、湧出以来龍のすむ所と言われ、北条時政の龍神伝説があります。日本三大弁財天を奉る江島神社の神紋も龍神の三つ鱗(みつうろこ)です。市寸島比賣命を祀る江島神社中津宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには赤岳や棚畑遺跡があり、市寸島比賣命(市杵嶋姫命)は「縄文のビーナス」とつながっていると思われます(図2)。オリンポス山と江島神社中津宮を結ぶラインの近くには白馬岳や、須佐之男命が祀られていると推定される相模國一之宮 寒川神社(さむかわじんじゃ)があります(図2)。

図2 江島神社中津宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと赤岳、棚畑遺跡、オリンポス山と江島神社中津宮を結ぶラインと白馬岳、寒川神社

 寒川神社には、八角形の「八氣の泉」があり、方位を示しているそうですが、シュメールには「ディンギル」と呼ばれる「神」を示す八方位の文字があります2)。楔形文字の「ディンギル𒀭」自体は、もともとシュメール語の単語an(天空)を示す表意文字です。須佐之男命は、母の伊弉冉尊は多氏(国津神)と推定されますが、天津神で八を吉数としたと考えられます。岩田 明氏は、十六弁菊花紋の原型は、菊の花弁ではなくディンギルの文字の八方位を十六方位の日時計として、平面に図案化したものではないかと推論しています2)。須佐之男命は、実際には高天原を追放されてはいないと考えられるので、記紀にある天津罪も創作された話と推定されます。弘仁元年(810年)正月、第52代嵯峨天皇は「素尊は則ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いし」と詔して、津島神社に神階正一位と日本総社の号を賜ったとされます。

 白山信仰は、717年(養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って現れたのが始まりと伝えられています。神奈川県足柄下郡箱根町元箱根九頭龍の森にある九頭龍神社本宮とメンフィスを結ぶラインの近くに白山本宮・加賀一ノ宮白山比咩神社や、富士山頂上浅間大社奥宮があります(図3)。

図3 九頭龍神社本宮とメンフィスを結ぶラインと白山比咩神社、富士山頂上浅間大社奥宮

  白山比咩神社や白山神社の祭神は、白山比咩大神(菊理媛尊)で、くくりひめの「くく」とは木の祖神「句句廼馳の神」(くくのちのかみ)で、木が伸びていく様や、生命の勢いを「くく」と表現し、「理」は「天の神を理といい、地の神を気という」と古書にあるようです。豊岡市には木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を祀る久久比神社(くくひじんじゃ)があります。江戸時代の記録では胸形(宗像)大明神とも称した古社で、多紀理比売命を祀るという説もあるようです。岡山県には、須佐之男命に由来すると推定される「久々井」という地名があります。白山比咩大神(菊理媛尊)が豊玉姫命で、木の祖神「句句廼馳の神」が須佐之男命とすると理解できます。

 菊池氏のルーツは、肥後国(現在の熊本県菊池市)で、平安時代に肥後国菊池郡の武士(藤原氏)が菊池を名乗ったのが始まりとされていますが、『魏書』東夷伝に、「狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。」と記され、「狗古智卑狗」は「菊池彦」に通じるともされています。『倭名類聚抄』には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されているようです。「久々知」は、「久久能智神(くくのちのかみ)」と関係があると思われます。菊池氏の家紋は、十六弁菊花紋にも似ている「尖り十六日足」で、日足紋は縄文系の豊臣秀吉も使用しています。元の菊池氏は、須佐之男命と関係があったと思われます。「木口(きぐち)」は、「菊池」の異形で岡山県に多く、秋田県潟上市天王の菅原道真を祀る北野神社は木口氏が勧請し、後裔は江戸時代に菊地姓を称したと伝えられます。塩釜神社(秋田県潟上市天王)とメンフィスを結ぶラインの近くに北野神社や熊野神社があります(図4)。塩釜神社熊野神社は、須佐之男命の関係の神社と考えられるので、木口氏(菊池氏)は須佐之男命と関係があると推定されます。

図4 塩釜神社(岩手県陸前高田市矢作町)とメンフィスを結ぶラインと北野神社(秋田県潟上市天王)、熊野神社(秋田県大仙市北長野、岩手県奥州市江刺)

 九頭竜神社(静岡県御殿場市)と白山神社(福井県勝山市野向町横倉)を結ぶラインは、富士山頂上浅間大社奥宮、白山神社(長野県上伊那郡中川村)、九頭竜神社(岐阜県下呂市)の近くを通ります(図5)。豊玉姫命は龍神で、十一面観音や白山比咩大神は豊玉姫命と推定され、また、九頭龍は「高志国」の八岐大蛇で、「夏」の禹王と関係があると推定されるので、須佐之男命の八岐大蛇退治の話は創作と思われます。中国で英雄視されている后羿(夷羿)の伝説では、彼は扶桑で休んでいた太陽の象徴である10羽のカラスのうち9羽を殺し、9つの頭を持つ蛇を殺したといわれます。

図5 九頭竜神社(静岡県御殿場市)と白山神社(福井県勝山市野向町横倉)を結ぶラインと富士山頂上浅間大社奥宮、白山神社(長野県上伊那郡中川村)、九頭竜神社(岐阜県下呂市)、九頭龍神社本宮、九頭龍神社(埼玉県坂戸市、熊谷市)

 寒川神社の社誌付録に『宮下文書』が付いていて、祭神の寒川比古命は大山祇命であるとしています。釈義楚の『義楚六帖』によると、徐福が富士山に漂着したことが記され、958年に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている」と伝えたとあります。大山阿夫利神社の祭神は、山の神・大山祇神で、大山祇神は「徐福」をさすという説がありますが、大山寺の開山は、秦氏の良弁僧正で、秦氏のもつ徐福情報が、弘法-弘順と伝わり、中国后周の『義楚六帖』に記載されることになったと考えられています(神奈川の徐福伝承 前田豊)。

 図4の九頭竜神社(静岡県御殿場市)と白山神社(福井県勝山市野向町横倉)を結ぶラインの延長線は、サウジアラビアのジェッダ(ジッダ)を通り、須佐之男命を祀っていると推定される大鳥神社と素鵞社を結ぶラインの延長線も同様にジェッダを通ります(図6、7)。ジェッダには「イヴの墓」といわれる考古遺跡があります。ジェッダは、エジプトから紅海を経てインド洋に至る東西交易路の重要な港湾として栄えてきましたが、「エジプトとエチオピアを支配した女王」ともいわれるシバの女王とソロモン王の伝説がうまれた「乳香の道」と呼ばれる隊商交易は紀元前1000年より前に始まったようです。ソロモン(紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)は、旧約聖書の『列王記』に登場するイスラエル王国3代王で、この時代は、エチオピアのラス・ダシャン山が聖地だったのかもしれません。稲田姫命(櫛名田比売)が、エティオピア王国の王女、アンドロメダ姫に例えられたこととかんけいがありそうです。

図6 大鳥神社とジェッダ(ジッダ)を結ぶラインと天王山古墳群、素鵞社、ジェッダ(ジッダ)とジェッダと九頭竜神社(静岡県御殿場市)を結ぶラインと白山神社、富士山頂上浅間大社奥宮
図7 大鳥神社とジェッダを結ぶラインと、ジェッダと九頭竜神社(静岡県御殿場市)を結ぶライン

  庵戸宮(廬戸宮)(いおとのみや)は、『古事記』『日本書紀』に伝わる古代日本の首都として営まれた皇宮(皇居)で、第6代孝安天皇暦102年に、第7代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられています。『古事記』には、第7代孝霊天皇の宮として⿊⽥廬⼾宮が記され、この庵戸宮(廬戸宮)跡に建てられたのが奈良県磯城郡田原本町黒田にある法楽寺といわれています。法楽寺とジェッダを結ぶラインの近くには摩耶山、廣峯神社、出雲大社があります(図8)。孝霊神社は、廬⼾神社ともいわれ、もとは法楽寺の鎮守社で、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し、⿊⽥村の⽒神として引き継がれたようです(図9)。このラインの近くに、牛頭天王の総本宮の廣峯神社や出雲大社があることは、孝霊天皇が須佐之男命(牛頭天王)であると推定されることと整合します。  

図8 法楽寺とジェッダを結ぶラインと摩耶山、廣峯神社、出雲大社
図9 法楽寺とジェッダを結ぶラインと孝霊神社

 奈良県や和歌山県を中心に「庵戸(いおと、あんど)」という名称が希少姓として数世帯存在しますが、この一族は、孝霊天皇の第3皇子を始祖とする末裔であると代々伝承されているようです。市町村で最も多いのは、和歌山県西牟婁郡上富田町で、町内に稲葉根王子神社があります。「稲葉」は大国主命との関係を表し、「根」は須佐之男命(孝霊天皇)を表していると思われます。祭神は稲荷神の姿をした金剛童子で、須佐之男命の娘の豊受大神(稲荷神)の兄弟と思われ、孝霊天皇の第3皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)で、木国(紀伊国)の大屋毘古神五十猛神)と推定されます。稲葉根王子神社とメンフィスを結ぶラインは、孝霊神社(香川県東かがわ市)の近くを通り、稲葉根王子と孝霊天皇との関係を示していると推定されます。また、このラインは多祁伊奈太伎佐耶布都神社(広島県福山市)、亀山八幡宮(広島県神石郡神石高原町阿下)の近くを通ります(図10)。

図10 稲葉根王子神社とメンフィスを結ぶラインと孝霊神社(香川県東かがわ市)、多祁伊奈太伎佐耶布都神社(広島県福山市)、亀山八幡宮(広島県神石郡神石高原町阿下)

 岩屋権現とも称される多祁伊奈太伎佐耶布都神社(福山市山野町)の祭神は、下道国造兄彦命とされていますが、伊奈太氏(稲田氏)の剣を祀った神社なので、元の祭神は素盞嗚尊と奇稲田姫命とも考えられています。『日本書紀』では、吉備臣の始祖を稚武彦命と記していますが、『古事記』では、大吉備津日子命(吉備津彦命)を吉備の上つ道臣の祖としています。多祁伊奈太伎佐耶布都神社と大吉備津日子命(吉備津彦命)の墓と推定される西求女塚古墳を結ぶラインは、大吉備津彦大神を主祭神とする吉備津神社を通るので(図11)、多祁伊奈太伎佐耶布都神社は、元は大吉備津日子命(吉備津彦命)を祀っていたと推定されます。藤原氏(中臣氏)は、仲哀天皇(小碓命、吉備武彦命と推定)と関係があったと推定されるので、多祁伊奈太伎佐耶布都神社の祭神を下道国造兄彦命に変えたのは藤原氏(中臣氏)と思われます。

図11 多祁伊奈太伎佐耶布都神社と西求女塚古墳を結ぶラインと吉備津神社

 ジェッダと九頭竜神社(静岡県御殿場市)を結ぶラインは、『淮南衡山列伝』から紀元前219年の徐福の第1回出航地と推定されている河北省秦皇島市を通ります(図12)。富士吉田市に伝わる徐福伝説では、徐福は、富士山に育つコケモモの実が薬になることを耳にして富士山に登ったといわれているようです。

図12 ジェッダと九頭竜神社(静岡県御殿場市)を結ぶラインと河北省秦皇島市

 ジェッダと出雲大神宮を結ぶラインは、燕国の都市だった天津市を通り、丹生津姫命とつながっている青谷上寺地遺跡の近くを通ります(図13)。また、同じラインは、白兎神社宇倍神社青垣町 佐治の近くを通ります(図14)。青垣町には、高皇産靈神を祀る産霊神社、伊弉册尊を祀る熊野神社、大日靈を祀る高座神社、素盞嗚雄命を祀る八阪神社、豊玉姫命を祀る浄丸神社などがあり、佐地神社(さちじんじゃ)の由緒によると「佐治」は水を治めるという意味のようです。

図13 ジェッダと出雲大神宮を結ぶラインと、天津市、青谷上寺地遺跡
図14 ジェッダと出雲大神宮を結ぶラインと、青谷上寺地遺跡、白兎神社、宇倍神社、青垣町佐治

 徐福渡来の地として知られる京都府与謝郡伊根町新井にある新井崎神社は、ジェッダと名古屋城を結ぶラインの近くにあります(図15)。名古屋城は、ギョベクリ・テペと氣比神宮を結ぶラインの延長線上にあるので、名古屋城のある場所は、古くから特別な場所だったと推定されます。

図15 ジェッダと名古屋城を結ぶラインと新井崎神社

 名古屋城の北2.5kmほどの所に、伊奴神社(いぬじんじゃ)があり(図16)、素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神(いぬひめのかみ)を祀っています。『延喜式』に「尾張国山田郡伊奴神社」と記載される式内社で、1330年余りの歴史を持つ名古屋でも有数の古社です。『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に印綬を与えたことが記されており、この印は、志賀島で見つかった「漢委奴国王」と刻まれた金印と考えられています。「漢委奴國王」の「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説があります。「委」と「伊」の発音は異なったようですが、「伊奴」は「いと」と読み、委奴=伊奴=伊都だったのかもしれません。そうすると、伊奴神社の祭神が素盞嗚尊なので、伊都国の一大率が須佐之男命と推定されることと整合します。ジェッダと伊奴神社を結ぶライン上には愛宕神社があります(図16)。現在は、加具土命を祭神としていますが、元々の愛宕社の祭神は愛宕大権現という修験道の神で、1611年頃遷座されたようです。秦氏とつながった藤原北家と愛宕社は関係があったと推定されます。

図16 ジェッダと伊奴神社を結ぶラインと愛宕神社(清須市朝日愛宕)

 徐福が辿り着いた地として伝承が残っている三重県熊野市波田須町には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としています。ジェッダと徐福ノ宮(波田須町)を結ぶラインの近くには、葦嶽山備中国総社宮備中国分寺日前神宮・國懸神宮あります(図17)。徐福の宮とジェッダを結ぶラインは、徐福の訓練地として知られる河北省の渤海に面した塩山県千童鎮の近くを通ります(図18)。

図17 ジェッダと徐福ノ宮(波田須町)を結ぶラインと、葦嶽山、備中国総社宮(総社)、備中国分寺、日前神宮・國懸神宮
図18 徐福の宮とジェッダを結ぶラインと塩山県千童鎮

文献
1)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書
2)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学研
3)山本隆司 2020 「定説破りの古代日本史」 幻冬舎