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温故知新(4)邪馬台国(天香山命(大国主命 高倉下命 孝元天皇) 須世理姫命(倭迹迹日百襲姫命 豊玉比売命 三穂津姫命) 少彦名命(事代主神)) 大彦命 建御名方命 武渟川別命 伊福部氏 尾張氏

 岡山市中区四御神・湯迫にある備前車塚古墳は、最古形式の前方後方墳で、赤坂山という神奈備型の山頂にあります1)(写真1)。この地に鎮座する大神神社(おおがじんじゃ)は、千年以上続く由緒ある神社で、祭神として、奈良県桜井市三輪にある三輪明神大神神社(おおみわじんじゃ)の三神(大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおむなちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ))を奉遷し、大国主命の后の三穂津姫神を合せて祀ったとの記録があります。四御神(しのごぜ)の地名の由来は、大物主神以下四神を祀っていることにあります。備前車塚古墳の東に山の神さまが祀られています(図1)。大物主神は、岡山県総社市三輪にある百射山神社に合祀されている三輪神社の祭神になっています2)。

写真1 山頂に備前車塚古墳がある赤坂山 撮影1974年 
出典:茂木雅博「前方後方墳」雄山閣出版1)
図1 備前車塚古墳、大神神社、四御神

 備前車塚古墳の石室内からは、卑弥呼が魏の皇帝から贈られたともされる三角縁神獣鏡が11面出土し(11面のうち8種9面は、椿井大塚山古墳出土鏡をはじめ九州地方から北関東地方の多くの古墳の出土鏡と同笵鏡)、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1、鉄刀などの鉄器も出土しています。鏡に含まれる微量成分から、三角縁神獣鏡は中国鏡と倭鏡のグループに分かれることが知られていますが、中国での出土例がないことから、三角縁は山を表し、山に囲まれた神国(邪馬台国)を表しているのかもしれません。『史記』によると、仙人が住むといわれる蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山は、中国の東方海上にあると考えられ、秦の始皇帝が、徐福に三神山を探させたと記し3)、のちに瀛州は、日本の雅名となっています4)。また、『日本書紀』の神功皇后の条に、新羅の王の言葉として「吾聞く、東に神国(かみのくに)有り。日本(やまと)と謂ふ。」と記されています。

 備前車塚古墳(前方後方墳)と卑弥呼の墓と考えられる箸墓古墳(前方後円墳)の前方部の形はほぼ同型であることが知られていて、これらは、同時期に作られたと推定されます。後方墳と後円墳の違いは、国津神と天津神の違いによるのかもしれません。中国の天神地祇の祭りの起こりにおいても、天は円天井(円丘)と考え、地は東西南北で示されるように方形(方丘)と考えていたようです5)。備前車塚古墳の前方部は、出雲大社の御神座と同じ西向きになっています。備前車塚古墳とオリンポス山を結ぶライン上の松江市秋鹿町には須佐之男命を祀る須賀神社(すがじんじゃ)があります(図2)。備前車塚古墳は、第8代孝元天皇(大国主命)の陵墓で、付近に邪馬台国があったと推定されます。

図2 備前車塚古墳とオリンポス山を結ぶラインと須賀神社

 備前国は令制国で、元は吉備国(きびのくに)でした。備前車塚古墳に近い中区祇園には、備前国総社宮(びぜんのくに そうじゃぐう)があり、大己貴命(おおなむちのみこと 大国主命)と須世理姫命(すせりびめのみこと 卑弥呼と推定)と八神殿(はっしんでん)を祀っています。八神は天皇に直接関わる重要な神々ですが、天照大御神が含まれておらず、実際に天照大御神が最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降で、それ以前の最高神・皇祖神は八神のうちの高皇産霊尊(高御産日神)だったする説が有力です6)。

 中区円山にある石高神社の社伝によると、かつては北手にある高倉山山頂に大己貴命(大国主命)を祀る石高神社があり、今の嶽字岩坪に須勢理姫命を祀る八幡宮があったようです。北区牟佐にある高蔵神社(たかくらじんじゃ)は、備前国総社神名帳にも載っている古社で、天香山命(あめのかぐやまのみこと)と天火明命(あめのほあかりのみこと)を祀っていますが、やはり、かつては高倉山にあり、高倉山自体も御神体として信仰され、頂上付近は本宮高倉山(ほんみやたかくらやま)と呼ばれています。石上布都魂神社と石高神社を結ぶラインのほぼ中央に本宮高倉山があります(図3)。

図3 石上布都魂神社と石高神社を結ぶラインと本宮高倉山、高蔵神社

 『古事記』には、倭建命が能褒野で国を偲んで詠んだ歌に、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山 隠(ごも)れる 倭しうるわし」があります。瀬戸内市邑久町尾張にある百枝八幡宮(ももえはちまんぐう)は、山に囲まれ、周辺には、備前車塚古墳や大神神社の他に、浦間茶臼山古墳金蔵山古墳築山古墳があり、安仁神社靭負神社西大寺などがあります(図4)。 

図4 百枝八幡宮(邑久町尾張)周辺の古墳、神社

 百枝八幡宮(写真2)には、尾張連祖の高倉下命(たかくらじのみこと)が祀られている祠があります(写真3)。「高倉下」という名前は「高い倉の主」という意味のようですが、説明板には高倉下命に「みやけしもつみこと」と仮名が振られています(写真4)。熱田神宮の境外摂社である高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)では、高倉下命は尾張氏の祖神として祀られています。百枝八幡宮の祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后とされていますが、百枝八幡宮のある宮地にはもともと高倉下命(尾張連の祖)を祀っていたようで、邑久町山手の高砂山にあった稲都神社が分社されたときに八幡神を祀り、尾張の地の総氏神としたようです。百枝八幡宮の本殿の千木(ちぎ)は内削(うちそ)ぎなので(写真2)、女神が祀られていると考えられ、「百」の字から、倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命)が奉遷されたのかもしれません。

写真2 百枝八幡宮本殿
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写真3 百枝八幡宮の祇園宮にある高倉下命の祠
写真4 百枝八幡宮の説明板

 『日本書紀』には、「天火明命の児、天香山は、これ尾張連らが遠祖なり」とあり、『先代旧事本紀』天孫本紀では、饒速日命の子で、天香山命の別名が高倉下命とされています。岡山市北区京山に、天火明命と大氣都姫神を祀る尾針神社(おはりじんじゃ)がありますが、一帯は、かつて「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部氏(いおきべうじ いふくべうじ)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したといわれています。『新撰姓氏録』「左京神別」は、「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」を載せ、「尾張連同祖、火明命之後也」とし、「大和国神別」の「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」は、「天火明命子天香山命之後也」とあり、「山城国神別」の「伊福部氏」・「河内国神別」の「五百木部連氏」も「火明命之後也」と載せています。これらのことから、古代尾張氏は吉備から東遷した氏族ではないかという説があります7)。

 天火明命は、『先代旧事本紀』では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)とされるので、高倉下命(天香山命)は、大国主命(孝元天皇)と推定されます。邑久町山手にある高砂山とアララト山を結ぶライン上に本宮高倉山があり(図5)、さらに出雲市別所町の諏訪神社(出雲社)の近くを通ります(図5)。諏訪神社(出雲社)は武御名方命と八束水臣津野神を祀っています。高倉山は、高倉下命(大国主命)と関係があると考えられますが、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)は、伊勢市の高倉山の麓に鎮座しています。

図5 高砂山(邑久町山手)とアララト山を結ぶラインと本宮高倉山、諏訪神社(出雲社)
注)高砂山はGoogleマップから削除されたようです

 邑久町山手の高砂山にある山手八幡宮(旧大垣八幡宮)(写真5)は、稲都神社を、宝亀2年(771年)五か所に分社した際、百枝八幡宮などと共に奉遷されたとされています。山手八幡宮の拝殿の天井には、天の岩戸の絵が飾られています(写真6)。稲都神社に倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命と推定)が祀られていたとすると、天の岩戸神話は、天照大神(大日孁貴)に代わって倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)が国をまとめ、治めたことを表しているのかもしれません。

写真5 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)
写真6 拝殿の天井の絵

 宇摩志麻治命は、宇治比古、『播磨国風土記』にみえる「宇治天皇」、莵道彦(うじひこ)、珍彦命(うずひこ)と同一人物で、孝元天皇と推定されます。岡将男氏の「吉備 邪馬台国東遷説」には、岡山平野の古地図が紹介されていますが、備前車塚古墳のある「湯迫」の近くに「宇治郷(うじのごう)」が記載されています2)。「うじ」には「三方を山に囲まれた地域」という意味があり、京都府南部の宇治の地名もその地形に由来すると説明されることがあるようです。山手八幡宮の祭神は、百枝八幡宮と同様に仲哀天皇、応神天皇、神功皇后とされていますが、玉垣に「宇治」の名前があるので(写真7)、元の祭神は宇治比古(莵道彦 高倉下命 孝元天皇と推定)だったと思われます。

写真7 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の玉垣

 岩屋山展望台(写真8)の下には、祭壇があり磐座と思われる場所(写真9)があります。

写真8 岩屋山展望台(邑久町山手)から西大寺方面を望む
写真9 岩屋山展望台下にある磐座

 高砂山の岩屋山展望台は、日本神話「因幡の白うさぎ」の白兎神を主神とする白兎神社(鳥取市)と剣山を結ぶラインの近くにあります(図6)。また、ラインの近くには、山手八幡宮、百枝八幡宮、阿字八幡宮、高オカミ神(鸕鶿草葺不合尊 開花天皇と推定)を祀る貴船神社(瀬戸内市邑久町山田庄)があります(図7)。このレイラインは、これらの神社と大国主命(孝元天皇 山幸彦と推定)との関係を示していると推定されます。

図6 白兎神社と剣山を結ぶラインと岩屋山展望台
図7 白兎神社と剣山を結ぶラインと岩屋山展望台、山手八幡宮、阿字八幡宮、貴船神社、百枝八幡宮

 高砂山にある阿字八幡宮と白兎神社を結ぶラインの近くには、熊山遺跡(岡山県赤磐市)や大崎神社(岡山県勝田郡勝央町)があります(図8)。

図8 阿字八幡宮と白兎神社を結ぶラインと熊山遺跡、大崎神社、阿波

 阿字八幡宮(写真10)には、備前焼の狛犬(写真11)があり、阿字八幡宮の北側、高砂山の南斜面には、祠のある山手立石祭祀跡(写真12)があります。「阿字」はサンスクリットの最初の文字で、万有の根源を象徴した字なので、最初の八幡宮という意味かもしれません。

写真10 阿字八幡宮
写真11 阿字八幡宮の備前焼狛犬
写真12 山手立石祭祀跡

 阿字八幡宮と大山祇神社(愛媛県今治市)と青谷上寺地遺跡(鳥取市)をラインで結び三角形を描くと、大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインは、阿字八幡宮とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。阿字八幡宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに大倭根子日子賦斗迩命(孝霊天皇)を祀る高岡神社(岡山県真庭市)や、船通山(せんつうざん)や、出雲大社があります(図9)。『古事記』によれば船通山の麓へ降ったスサノヲは八岐大蛇を退治し、八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したといわれています。大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインの近くには、穴門山神社(岡山県高梁市)があり、青谷上寺地遺跡と阿字八幡宮を結ぶラインの近くには、サムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)があります(図9)。阿字八幡宮は、須佐之男命(孝霊天皇)を祀っていると推定されます。

図9 阿字八幡宮と大山祇神社を結ぶライン、大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインと穴門山神社、青谷上寺地遺跡と阿字八幡宮を結ぶラインとサムハラ神社 奥の宮、阿字八幡宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと高岡神社、船通山、出雲大社

 百枝八幡宮と白兎神社を結ぶラインの近くには、長船町福岡水原古墳(黒媛塚)( 津山市)、河井神社(津山市加茂町)、吉井川源流の津山市阿波高山神社(鳥取市)があります(図10)。このレイラインは、倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命)と孝元天皇(大国主命 山幸彦)を結び付けていると推定されます。

図10 百枝八幡宮と白兎神社を結ぶラインと長船町福岡、水原古墳(黒媛塚)、河井神社、津山市阿波、高山神社

 貴船神社(邑久町)と彦波限建鵜葺草葺不合尊(開花天皇と推定)を祀る美作國二ノ宮 髙野神社(岡山県津山市)を結ぶラインの近くには、野見宿禰命を祀る石津神社(岡山市東区)、大山咋命を祀る日吉神社(ひえじんじゃ)(岡山県赤磐市石蓮寺)、速玉之男命を祀る波多神社(岡山県久米郡久米南町)があることから(図11)、貴船神社(邑久町)の祭神は、開花天皇と推定されます。

図11 貴船神社(邑久町)と髙野神社を結ぶラインと石津神社、日吉神社(赤磐市石蓮寺)、波多神社

 岡山県は、名前が示すように、中国山地からの土砂が堆積し、弥生時代の中期から後期前半にかけて、南部に台地が広がっていました8)。岡山市北区にある岡山神社の主祭神は、卑弥呼と考えられる倭迹迹日百襲姫命で、裏手には、内宮、外宮など十七社を祀った祠があります。かつては、近くに、岡山・石山・天神山という3つの小高い丘が存在していて、岡山には現在の岡山城があり、天神山は現在の天神町、石山は石山公園あたりにありました(図6)。邪馬台国の「台(臺)」は、台与(臺與)と同じく「と」と読むと考えられ9)、平らで小高い土地(台地/高台)の意味をもつことから、邪馬台国( やまとのくに)の宮は、丘の上にあったと推定されます。

 オリンポス十二神の一柱であるアテナは、アテナイ(アテネ)のアクロポリスにあるパルテノン神殿に祀られていました。「アクロポリス」とは、「高い丘の上の城塞」を意味し、アテナイのアクロポリスも丘の上にあり、現在この丘には、古代ギリシア美術を代表する、パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿がありますが、ペルシャ戦争時は木造建築で、すべてが灰に帰したようです。

 岡山市中区に広がる沖積地に弥生期の埋没水田を含む百間川遺跡(ひゃっけんがわいせき)(図12)がありますが、纏向遺跡と同様に、ここからも桃の種が多数見つかっています。また、百間川原尾島遺跡(はらおじまいせき)では、西アジア起源の物質であるファイアンスの小玉が出土していて、ファイアンスは、邪馬台国の官人である一大率(いちだいそつ)が置かれた伊都国の王都、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡(みくも・いわらいせき)からも出土しています8)。

図12 岡山神社、高島、百間川遺跡

 神武東征の説話は、須佐之男命(第7代孝霊天皇)の時代と推定していますが、東征の際に立ち寄り、8年間滞在したとされる吉備の高嶋宮の場所を、百間川遺跡群の北側にある高島(図12)とする説があります2)。岡山市立高島小のある国府市場は、古代の条里制の名残を多くとどめる田園地域で、現在微高地が多く存在します。百間川で桃の種やファイアンスが見つかったのは、丘が洪水で崩れ、川に流されたためと考えると、高島にも丘があり卑弥呼の宮があったのかもしれません。

 児島半島東端(児島郡小串村大字光明崎(現・岡山市南区小串))に、かつて卑弥呼と推定される豊玉比売命を祀る玉井宮がありました。小串とアララト山を結ぶラインの近くに、吉備津彦神社や鬼ノ城跡があります(図13)。また、南区には阿津の天皇山に素盞嗚命を祀る兵主神社(へいしゅじんじゃ)があります。東区神崎町にある神前神社(かみさきじんじゃ)には、神武東征の先導者として知られる珍彦命(椎根津彦命)が祀られ、東区水門町には、珍彦命と海童神(わだつみのかみ)を祀った亀石神社(かめいわじんじゃ)があります。オリンポス山と神前神社を結ぶラインの近くに備前国総社宮があります(図13)。

図13 小串とアララト山を結ぶラインと兵主神社、吉備津彦神社、鬼ノ城跡、及び、オリンポス山と神前神社を結ぶラインと備前国総社宮、亀石神社

 赤磐市にある石上布都魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)は、素盞嗚尊を祭神としていますが、明治時代までは、素盞嗚尊の剣である布都御魂が祭神として祀られていたと伝わり、『日本書紀』には、「一書曰 その素盞鳴命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り」と記しています。奈良県天理市にある石上神宮の社伝によれば、「布都御魂剣は、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。」とあります。

 天火明命は、古代に熊野の地を治めた熊野国造家の祖神で、天火明命の子である高倉下命は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に「布都御魂」 を献じたとされています。熊野大神は、『出雲国風土記』に登場する非常に高い神格の神で、天津神に位置づけられ、宗教上の解釈としては、須佐之男命と同神とされています10)。熊野本宮大社は熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心にあり、熊野神社の総本宮ですが、大斎原とギョベクリ・テペを結ぶラインは、島根県松江市天狗山にある熊野大社元宮斎場跡と、岡山県赤磐市にある石上布都魂神社の近くを通ります(図14)。

図14 熊野本宮大社 大斎原とギョベクリ・テペを結ぶラインと熊野大社元宮 斎場跡、石上布都魂神社

 岡山県赤磐市にある熊山遺跡の階段ピラミッド状の構造物は、奈良時代の仏塔の一種とされていますが、須佐之男命と関連付ける説もあります。熊山遺跡と古代エジプトの都市メンフィスを結ぶラインは、出雲大社の北東部にある出雲市別所町の諏訪神社(出雲社)の近くを通ります(図15)。

図15 熊山遺跡とメンフィス(エジプト)を結ぶラインと諏訪神社(出雲社)

 メンフィスで信仰されたプタハは、エジプト神話の鍛冶や職人の守護神ともされ、後世では、冥界の神とされたオシリスと結び付けられ、プタハの分身はアピス牛とみなされて崇拝されました。古王国時代ファラオ達は第1王朝の時からメンフィスで国家を統治しましたが、第3王朝(紀元前2686年頃 ~紀元前2613年頃)のジェセル王のピラミッド複合体はメンフィスのネクロポリス(死者の都)であるサッカラにあります。ジェセル王のピラミッドは、典型的な階段ピラミッドで、その形状は後世に書かれた碑文から、王が天に昇るための階段を意味するといわれています。王の葬祭施設であると同時に、現世における王の支配権、及び権威を象徴する場としての意味を強く持ち、墳墓としての機能を持たない小ピラミッドが別に多数建設されたようです。牛頭天王とも習合した須佐之男命は、メンフィスのプタハ(アピス牛)に例えられたのかもしれません。卑弥呼もメンフィスと関係付けられているのは、須佐之男命と卑弥呼の血縁関係を示唆していると思われます。ジェセル王のピラミッドと熊山遺跡を結ぶラインは、カナンを通ります(図16)。

図16 ジェセル王のピラミッドと熊山遺跡を結ぶラインとカナン

 熊山遺跡の南にある備前市の大内神社とオリンポス山を結ぶラインの近くに石上布都魂神社があります(図17)。大内神社の祭神は、大山津見神、木花之佐久夜毘売命、神大市比売、大香山戸臣神のようです。「大内」は、神大市比売の「大市」に由来すると推定され、須佐之男命と妃の神大市比売を関連付けていると思われます。

図17 大内神社とオリンポス山を結ぶラインと石上布都魂神社、熊山姫大神神社下之宮

 大内神社は、唐破風(からはふ)にあるアルファベットのような古代文字で知られ、一説には、対馬国の卜部氏(うらべうじ)および阿比留氏に伝わったといわれる神代文字の「阿比留文字(あひるもじ)」といわれています(写真13)。「おお(ほ)ちのやしろ」と読めるそうですが、阿比留文字には、縦に並ぶ記号を横に並べたものもあったようです。似た構造を持つ「ハングル」は、「阿比留文字」を参考にして作られたのではないかという説もあります。大内神社の北にある熊山遺跡は、レイラインでカナンと関係付けられていると推定され、言語学上、カナン諸語はヘブライ語.フェニキア語を含み、大内神社の古代文字は右上から読むので、初期には、右から左や上から下へも書かれたアルファベットの基になったフェニキア文字と関係があると推定されます。もしかすると表音文字の「かな文字」は「カナン(フェニキア)文字」に由来するのかもしれません。

写真13 大内神社の古代文字 出典:https://ja-jp.facebook.com/oouchi.jinjya/

 大内神社の真北の赤磐市に熊山姫大神神社下之宮があり、同様に神大市比売を祀っていると推定されます(図11)。近くの熊山油瀧神社上之宮(くまやまあぶらたきじんじゃうえのみや)には、大山祗命(おおやまつみのみこと 伊弉諾尊と推定)が祀られているので、熊山遺跡は、須佐之男命と関係があると推定されます。

 丸谷憲二氏は、熊山遺跡の階段ピラミッド状構造物と中央アジアのタジキスタン共和国にあるヴァン仏教遺跡の類似性を指摘しています。また、新疆ウイグル自治区北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン南西部のアルマトイ州 にかけて流れるイリ川と、岡山県備前市を流れる伊里川を関連付けています。古代エジプトのメンフィスと伊里川を結ぶライン上に、イリ川があります(図18)。プタハが後世に結び付けられた冥界の神オシリスは、エジプト語で「オス」(os-「多い」)と「イリ」(-iri-「目」)なので、「イリ」は「目」を意味するのかもしれません。

図18 メンフィス(古代エジプト)と伊里川を結ぶラインとイリ川

 日前神宮・國懸神宮とメンフィス(古代エジプト)を結ぶラインは、石上布都魂神社や大己貴命・綾門姫命を祀る宇賀神社(出雲市口宇賀町)の近くを通ります。また、「日の生まれる(日が昇る)里」に由来する地名ともいわれる日生町日生(ひなせ)も同じラインの近くにあり(図19)、太陽信仰と関係があると推定されます。

図19 日前神宮・國懸神宮とメンフィス(古代エジプト)と結ぶラインと日生、石上布都魂神社、宇賀神社 

 熊山遺跡から「大和黄鐘」の銘文のある遺物が見つかっています5)(写真14)。「大和」は、魏の明帝曹叡の治世の元号の「太和」と関係があるかもしれません。陳寿が『三国志』に『魏志』東夷伝を立てたのは、西晉の皇帝(司馬炎)の祖父(司馬懿)の功績や、西晉の正当性を強調するためで4)、邪馬台国への距離には誇張があり、異民族同士が争うように仕向けたことは戦果とされたようです11)。後漢末期の184年に起きた太平道(道教の一派)の農民反乱「黄巾の乱(こうきんのらん)」のように、当時の中国における道教は反体制的な立ち位置の宗教で、卑弥呼が道教の秘術を使って民衆を導いていたとすると12)、卑弥呼の死に関わったとすることは戦果だったと思われます。倭人伝に、「張政らを遣わして、詔書・黃幢(こうどう 魏の軍旗)をもたらし、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)し、もって卑弥呼死す」と記したのは戦果を示すためと考えられます。

 殷やの時代には、日本の銅鐸と同じように、青銅器はほぼ全てが祭祀用でしたが、古代中国の金鐸(金属製の鐸)は武事すなわち軍隊を動かす際に用いられたようです。丸谷憲二氏は「黄幢」は「黄鐘」の書写ミスとしていますが8)、黄巾の乱の「黄巾」を連想させるために意図的に変えたのかもしれません。実際には魏の皇帝は「黄鐘」を難升米(大国主命 孝元天皇)に贈ったと推定されます。

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写真14 黄鐘 出典:若狭哲六「女王国邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会

 熊山遺跡出土品には、中国殷周青銅器に類品が見られる(かなえ)もあります5)(写真15)。「鼎の軽重を問う」という故事成語がありますが、鼎は、中国初の王朝「夏」の創始者で「治水神」として知られる「禹王」が中国全土(九州)の牧(長官)から青銅を集めて作らせた「九鼎」が起源とされ14)、周代まで帝位の象徴とされていました。

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 写真15 鼎 出典:若狭哲六「女王国邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会

 (紀元前2070年頃-紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝で夏后氏ともいい、夏・三代といいます。河南省洛陽市偃師区翟鎮二里頭村にある二里頭遺跡は、紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられています。二里頭遺跡(北緯34度41分53秒)は、備前車塚古墳(北緯34度42分6秒)と同緯度にあります(図20)。これは、邪馬台国と夏王朝との関係を示しているのかもしれません。

図20 備前車塚古墳と二里頭遺跡のある二里頭村を結ぶライン

 南北朝時代(439年 - 589年)を記録した『 北史(ほくし)』では、大和(やまと)のことを「邪摩堆(やまと)」(は、うずたかい地)と記述し、竹斯国(筑紫国に比定されている)から邪摩堆まで「東」へと向かっています。大平裕氏は、隋からの使者の報告や、唐の『後漢書』の記載からも「邪摩堆」が正しいとしています14)。奈良の大和は盆地なので、倭(邪摩堆)国の都は吉備国にあったと思われます。上田正昭氏によると、「大和」が使われるようになったのは、「養老令」が施行された757年頃とのことです15)。『万葉集』に、太宰帥大伴旅人(7世紀後半~8世紀前半)が都へ帰る際に詠んだ「大和道(やまとぢ)の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも」という歌などもあります16)。岡山市北区には大和町があり、岡山県吉備郡(旧・賀陽郡)には大和村がありました。北区にある三和は「みと」と読むので、古くから「和」を「と」と読む習慣があったと考えられます。

 岡山県には、瀬戸内市邑久町の他に、赤磐市、久米郡、美作市にも「山手」という地名がありますが、特に、「神部(かんべ)」があったと推定される石上布都魂神社の付近に多くあります(図21)。

図21 石上布都魂神社と山手

 魏の人々は「邪馬台国」をヤマティ、ヤマトと表記していたようです。備前市の伊里川が、カザフスタンの「イリ川」に由来するならば、もしかすると「山手」は、イリ川上流にある「ヤマトゥ Yamat, Yamata, Yamatu」に由来するのかもしれません。ギョベクリ・テペは、トルコ共和国にあり、トルコ語と系統的に関係がある言語(チュルク諸語)はヨーロッパからアジアまで広く分布しています。日本語の「山」「山地」は、トルコ語で「yama」「yamaç(ヤマチ)」で、また、トルコ語は語順が主語-目的語-動詞となる点や、助詞や助動詞の付き方が日本語と似ているとされています。

 彦島八幡宮境内にあるぺトログラフのうち、北方ツングスエニセイ文字(古チュルク語)系には、満州語が含まれるようなので、このペテログラフを残した民族は、「王者のハプログループ」によると清朝を建てた民族や百済、出雲王朝と同じC2系統だったと推定されます。

 「山手」という地名は、埼玉県飯能市、兵庫県神戸市垂水区、岐阜県美濃加茂市、奈良県吉野郡十津川村などにもあります。音韻からは、「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆(yamatö)」は「山のふもと」の意味とされるので、「山手(やまのて やまて)」の「山に近い所」という意味と似ています。古代には「台」は「と」または「テ(カラ語)」と読まれたので17)、「邪馬台」を「山手」と表記したのかもしれません。

 トルコの国旗にみられる三日月と星はイスラム教の象徴であると同時に、アジアではイスラム教普及以前から使用され、日本国旗の太陽とトルコ国旗の三日月と星は、国旗のシンボルと国の地理的関係が一致しているといわれています。アルテミスは、古代から特にギリシャとクレタ島と北西アナトリアで熱心に信仰され、古代都市エフェソスを中心として信仰された女神ですが、月の神とされるオリンポス十二神の一柱のアルテミスが、父ゼウスに要求したことの中には、多くの名前を持ち、すべての山を支配することがあります。大国主命は多くの名前を持ち、兎に例えられたと考えられ、古くから兎は月と関係しているので、月の神であるアルテミスと繋がります。

 備前車塚古墳は、四御神とアララト山を結ぶラインとオリンポス山と大神神社を結ぶラインの中間にあり(図22)、備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインは、これらのラインの交点を通ります。また、図22のラインは、それぞれ出雲大社八重垣神社須我神社の近くを通ります(図23)。備前車塚古墳とアルテミス神殿はレイラインで結ばれていることから(図24)、大国主命(孝元天皇)は月の神であるアルテミスと関係があると推定されます。

図22 四御神とアララト山、オリンポス山と大神神社、大神神社と備前車塚古墳、備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶライン
図23 図22のラインと出雲大社、須我神社、八重垣神社
図24 図23のラインとアララト山とオリンポス山を結ぶライン、アルテミス神殿

 備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインは、高岡神社(岡山県真庭市)、鳥取県日野郡日南町にある玉依姫命を主神とする福榮神社(ふくさかえじんじゃ)、金屋子神社(島根県安来市)、奥宇賀神社(島根県出雲市)の近くも通ります(図25)。奥宇賀神社は、『出雲風土記』にある「彌努婆社」(みのばしゃ)の美奴麻神社などを明治に合祀した神社で、天照大神などを祀っています。

図25 備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと高岡神社(真庭市)、福榮神社(鳥取県日野郡日南町)、金屋子神社(安来市)、奥宇賀神社(出雲市)

 アルタイ諸語は、ユーラシア大陸を横断する形で分布する言語連合で、トルコ語や日本語を含みます。マルティン・ロベーツは、従来の広義のアルタイ語族(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、日本語族、朝鮮語族)を「トランスユーラシア語族」と呼称し、「トランスユーラシア祖語」は紀元前6千年紀の遼西興隆窪文化を原郷とし、雑穀農耕とともに周辺に拡散していったとしています。興隆窪文化は、中国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて存在した新石器時代の文化で、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方や北海道からも発見され、三内丸山遺跡から出土している円筒土器やけつ状耳飾りなどは興隆窪文化と類似しているようです。

 大伯皇女(おおくのひめみこ・大来皇女)は、天武天皇の皇女で、母は天智天皇皇女の大田皇女です。百済救援のための天智天皇の船団が大伯海(邑久郡付近の海)にさしかかったとき生まれたとされています。大伯皇女は、673年に伊勢の斎宮に定められ翌年伊勢国に下向し、686年の同母弟の大津皇子(おおつのおうじ)の刑死後に帰京しています。『万葉集』に「我が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜ふけて暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし」など大津皇子に対する愛情を歌い込めた短歌6首が残っています。岡山県岡山市東区には、太伯小学校(令和3年閉校)がありましたが、元の地名は「大伯」だったようです。若狭哲六氏の著書5)にも熊山遺跡の出土品として掲載されていますが、岡山市北区にある蓮昌寺には、「太伯」の銘文が刻された「爵(しゃく)」があります。「」は、中国殷などで用いられた祭器で、三つ足は「天・地・神」を表しています。

 『魏略』や『梁書』では、倭人が「太伯の後裔」を称していたことを伝えています4)。太伯は春秋時代の呉(句呉)の始祖で、周の太王古公の長子であり、姫姓でした。『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とあります。高倉山の南東にある岡山市北区牟佐の牟佐大塚古墳は、6世紀末の築造と推定される円墳ですが、『新撰姓氏録』「左京諸蕃」には「牟佐村主(むさすぐり)」は三国時代の呉の孫権の子孫であるという記述があります。

 『日本書紀』の景行天皇の条に、天皇が筑紫に遠征した際、神夏磯媛(かむなつそひめ)が賢木(さかき)に上から順に「八握剣」「八咫鏡」「八尺瓊」を掛けて恭順しています。安田喜憲氏によると、龍に代表される黄河文明の吉数は九で、鳳凰に代表される長江文明の吉数は八か六としています19)。神夏磯媛は、八を吉数としているので後者と推定されます。三種の神器の一つである「八咫鏡」の「」は周尺(一尺 19.1cm)のことで、円周が八咫の鏡を「八咫鏡」とすると、八咫鏡の直径は48.7cmとなり、これは、『延喜式』伊勢大神宮式や『皇太神宮儀式帳』において、鏡を納める桶式の内径が「一尺六寸三分」(約49センチ)とされていることと符合します。河姆渡文化(かぼとぶんか)は、中国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化で、高床式住居があり、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになっています。

 晋の学者郭義恭が266年から280年ころにまとめたと考えられている『広志』には、伊都国の南に「邪馬嘉国(やまかこく)」があると記していますが、田中章介氏は、邪馬嘉国と邪馬臺国は、明らかに別の国であるとしています19)。もしかすると「邪馬嘉国」の「嘉(か)」は、「神夏磯媛」の「夏(か)」や「夏王朝」の「夏」と関係があり、線文字Bの「丸に十字」の「か」に由来するのかもしれません。「邪馬嘉国」は、『魏志』倭人伝の「邪馬台国」とは別の女王国で、卑弥呼の時代には邪馬台国(倭国)に属し、魏と交渉していたのかもしれません。

 「神部」があったと推定される石上布都魂神社とオリンポス山を結ぶライン上には、事代主(ことしろぬし)命を祀った志呂神社(しろじんじゃ)があり(図26)、古くからの伝統行事や祭りが行われています。志呂神社のある建部町の「武部・建部・健部(たけるべ)」は、律令制前の軍事的部民(べみん)の一つで、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を伝えるために設けられた名代(なしろ)として伝承されています。事代主神は、国譲り神話にも登場しますが、八重言代主神、八重事代主神とも表記され、『古事記』において大国主神(孝元天皇)と神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)との間に生まれたとされます。

図26 石上布都魂神社とオリンポス山を結ぶラインと志呂神社

 奈良県天理市柳本町にある古墳時代前期の黒塚古墳は、オオヤマト古墳群の中の柳本古墳群に属し、その南に箸墓古墳のある纏向古墳群があります。また、三角縁神獣鏡33面(椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同范鏡)とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が出土していることから、孝元天皇の第1皇子の大彦命の墓と推定されます。33面のうち3面が、これまでに関東や四国で見つかっている鏡と同笵鏡である事が判明しています。『日本書紀』によると、大彦命は、崇神天皇の代に四方の征討に派遣された「四道(しどう)将軍」の一人とされていますが、埼玉県行田市にある5世紀後半の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」には、「意富比垝(オホヒコ)」から8代の名前と系譜が刻まれています20)。「意富」の字から、大彦命は多氏と考えられます。四道将軍の一人で大彦命の子とされる、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は、大国主命と沼河比売(ぬなかわひめ)との間に生まれた建御名方命の兄弟の建沼河男命と同一人物と推定され、大彦命とは異母兄弟と思われます。

 高砂山にある阿字八幡宮の祭神は、百枝八幡宮や山手八幡宮と同じく仲哀天皇、応神天皇、神功皇后となっていますが、拝殿に飾られている絵には、氏子の阿部朝臣の名前があります(写真16)。阿部氏には大彦命の後裔とされる氏族がいて、景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされます。徳川家康の祖父・松平清康の時代から松平氏に仕えた阿部定吉がいますが、徳川譜代の阿部氏は、始祖は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命であると自称しています。備後国福山藩の第7代藩主の阿部正弘は老中首座を務めました。絵に描かれている二人の武士のうち、鬼を退治しようとしているのは吉備津彦命で、もう一人は大彦命と思われ、阿字八幡宮は大彦命の後裔の神社で、須佐之男命(孝霊天皇)や大彦命を祀っていると推定されます。

写真16 阿字八幡宮の拝殿の絵

 茨城県笠間市福原にある常陸国出雲大社のホームページには、福原は、島根県・出雲大社から、大国主大神の第二御子神である建御名方神(たけみなかたのかみ)が鎮まる長野県の諏訪大社を通り、日が生まれる国・常陸国へと直線上で結ばれているとあります。「大国主大神」は、常世之国(とこよのくに)「常陸国・現在の茨城県」の少彦名命(すくなひこのみこと)と共に国づくりに励まれたと伝えられているそうですが、少彦名命(少名毘古那神)は、孝元天皇(大国主命)の皇子の少彦男心命(すくなひこおこころのみこと:『日本書紀』一書)、少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと:『古事記』)と推定されます。少彦男心命の母は欝色謎命とされ、四御神の大神神社に少彦名命と合祀されている三穂津姫と推定されるので、三穂津姫は、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)と推定されます。

文献
1)茂木雅博 1974 「前方後方墳」 雄山閣出版
2)岡将男 2014 「吉備 邪馬台国東遷説」 吉備人出版
3)武光 誠 2014 「地図で読む「魏志倭人伝」と「邪馬台国」」 PHP文庫
4)渡邉義浩 2012 「魏志倭人伝の謎を解く」 中公新書
5)若狭哲六 1991 「女王国邪馬台国の謎に迫る」 吉備先史古代研究会
6)溝口睦子 2009 「アマテラスの誕生」 岩波新書
7)柴田 一 編著 2012 「岡山県謎解き散歩」 新人物文庫 KADOKAWA8)岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編 2016 「吉備の弥生時代」吉備人出版
9)吉村武彦 2010 「シリーズ日本古代史② ヤマト王権」 岩波書店110)瀧音能之 2018 「出雲の謎大全」 青春出版社
11)孫 栄健 2018 「邪馬台国の全解決」 言視舎
12)並木伸一郎 2023 「日本史 書き残されたふしぎな話」 三笠文庫
13)王 敏 2014 「禹王と日本人」 NHKブックス
14)大平 裕 2021 「古代史」 PHPエディターズグループ
15)上田正昭 2012 「私の日本古代史(上)」 新潮選書
16)若井正一 2004 「ヤマトの誕生」 文芸社
17)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館
18)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書
19)田中章介 『魏志』倭人伝に係る、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して 大阪学院大学 人文自然論叢 <論説> 第77-78号 2019年3月
20)森 浩一 2011 「古代史おさらい帖」 ちくま学芸文庫