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亡くなった祖父が教えてくれた、大切なこと。死ぬということは

気づけばもう9月ですね。早い!
夏好きな私は、今からちょっと切ないです……日差しはまだまだ鮮烈で熱いのに、もう風は冷たくなって少しずつ秋の気配。
夏が終わってしまう……さ、さみしい。
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先日、夫とおしゃべりしていて思い出したことがあり、そのことを書きたくて久しぶりの投稿です。

もう10年以上前、私のおじいちゃんが亡くなった時のこと。いま思えば、私、すごく大切なことを教えてもらったなって。

写真は全て2013年フィンドホーンツアーで撮影
アイオナ島(スコットランド)、また行きたいな

私は生まれた頃から祖父・祖母・父・母・兄・姉と7人暮しでした。
祖父は私たち兄妹をとても可愛がってくれて、私も祖父が大好き。

学校から帰って、居間でゴロゴロしながら祖父とTV(主に水戸黄門・笑)を見る日課は、私が大学進学で上京するまで続きました。

就職を機にまた実家へ戻った時には、祖父は長い入院生活に入っており、一緒に暮らすことはできませんでした。

祖父は昔の人にしては背が高く、若い頃に鳶職や農作業をこなした立派な体格でした。

が、入院でほぼ寝たきりの生活になり……。初めて布団をまくって足を見せてくれた時、その細さに愕然としたのを覚えています。人間の身体って、使うことがなければこんなに衰えてしまうのか、と。

それから、私はできる限りたくさんお見舞いに行くようにしていました。

特に何をするでもないけれど、祖父と私の間には、居間で2人でのんびり過ごしていたような、いつもの雰囲気がありました。

てきとうにゴロゴロして、なんとなくお互い一緒に過ごすだけの、リラックスした家族の時間。

祖父がニコニコして小銭を渡しながら「自販機で飲み物を買ってきてくれ」と言う時なんて、まるで子供の頃に近所へお使いに出された時みたいで、懐かしかったです。

アイオナ島の地元の人から
「巨人の帽子」と言われていた岩石

しかし、入院生活も後半になる頃、少しずつ祖父の発言に被害妄想が出始めました。

大部屋の向かいのベッドのおじさんを指して
「アイツは○○党員で、オマエを勧誘しようと狙っている」とか(す、すごい。戦中派の妄想だ……! とビビりました)。

「動けなくなった自分を笑っている奴らがいる。
 這いつくばってでも見返してやる」とか。

それから状態が少しずつ悪くなり、とうとう食事をとることも難しくなってきたある日、お医者さんに胃瘻(いろう)の提案がありました。

胃瘻は、胃に小さな穴をあけてお腹に管を取り付け、直接栄養を摂取する方法です。

ただ正直なところ、その為の手術をしたからといって、祖父の寿命がそう延びるわけではないということ、他にリスクもあることから、決断は本人やご家族にお任せします、という状況に。

私たち家族はてっきり「祖父はその選択をしないだろう」という気持ちでいました。体調も精神状態も良くないなか、今から新しいことに取り組むのは苦しいのじゃないかと。

しかし、祖父の気持ちは違いました。

「私はここを出て、もう一度
 自由に飛び回りたいんだ」

そう言って、胃瘻の手術を希望したんです。
横たわったままの祖父の、その口調の力強さ、願いの強さに驚かされました。

ですが、結局手術の日取りを決めることもなく……。
それから間もなく祖父は亡くなりました。

危篤の知らせを受け、自分の運転する車で病院へ向かっていると、ふっと身体が軽くなった感触がありました。

不思議なことにその時、静かな確信があったんです。

ああ、おじいちゃん、願いを叶えたんだな。

「私はここを出て、もう一度
 自由に飛び回りたいんだ」

その願いを叶えるために、もう今の肉体では
難しいから、去ることに決めたんだな、と。

良かったね。

その気持ちだけで、涙がこみ上げました。

もう会えない、声も聞けない、とてもさみしい。

だけど本当に、本当に、良かったね。

私たちの肉体は古びていって、どうしても動かせる期間に限りがあって。
自分の想いを叶えることが難しくなる瞬間がやってきて。
 
だから『死ぬ』とはある意味で、本人の想い、希望、願い……それらが叶う瞬間でもあるんじゃないか。

遺る人間としての悲しみはもちろんあるけれど、
何よりも「良かったね」、そう声を掛けてあげたいような。

大切なことを教わっていたこと、思い出せて本当に良かった。
改めて、おじいちゃん、本当にありがとう。

こうして文章にできたことも、嬉しいな♡
今、すごくこの曲の気分です 

亡くなった方へ、愛と賛辞を捧げる歌。
宇多田ヒカル、同時代に生きてくれていて本当にありがとう……!

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