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恋、わずらう #3 暗雲

前回までのお話…

初日セミナーを終えた二人。握手をした手は、ほんの少しだけ名残惜しかった。その手を大切にコートへ忍ばせた僕は、セミナー後半で出会った中国人女性コウのことを思いだしながら、ホテルへの帰り路をゆっくり歩いていた…

◇◇◇

ーーBARの夜は長い。

本社から出向という形で赴任した無理矢理な人事ではあったけれど、BARの仕事を始めてみれば接客は楽しく、むしろ面白かった。本当は人見知りのくせに。
セミナー前日…その晩の忙しさにかまけ、よせばいいのに薄明るくなるまでお客さんに付き合っていた。なんだかんだ言いながら、嫌いじゃないのだ。

寝ないで行くか…

と、そのお客さまの後を追うように、用意していたキャリーバックをガランガランと勢いよく引きずりながら駅まで走り、始発に飛び込み、まぶしい朝の光を浴びながらウトウトと電車に揺られ、そうして青空が広がる新宿のホテルへチェックインしたのは昨日のこと。


前日に全く寝ていなかった僕…
慣れない緊張から一気に解放されたこともあって、その晩は軽くシャワーを浴びたあと、ベットになだれ込み、そのまま深い眠りにおちてしまったーー

二日目の朝


よく寝た…
と、まだ眠い目をこすり、スマホを横目で確認する。8:34のデジタル表示。セミナー会場まで歩いて5分もかからないけれどさすがに…と、はっきりしない頭でぐだぐだ考える。セミナーは9時からだ。朝食どころではない。自販機で買ったコーヒーを一気に飲み干した僕は、小走りでビルの谷間をすり抜け、最後は息を切らしながらなんとかセミナー会場へと滑り込んだ。
銀色に反射する鏡張りのビルの中、ポケットから取り出したスマホの液晶は8:57を表示していた。


席に着く。

自然と、探していた。
もちろん200人もいる会場で、よっぽど近くに座っていない限り見つけるなんて、できないけれど。

大きな溜め息をつきながら、自らの不甲斐なさを呪った。
20分…せめて10分前に着いていたら…
ただ、そんな気持ちをよそにセミナーはどんどん進行してゆく。何やら昨日の宿題をみんなの前で発表するようだ。
続々と挙手しては発表する参加者を横目に、まだ頭のまわらない僕の意識はすっかり彼女へと飛んでいた…

ーー恋だと本当は気付いていながら、そうじゃないと何故か否定している。好意がある状態と恋は別だと理性が否定しようとしている。ただ思いだすのは、彼女の声だったり仕草だったり。
ただ隣に座りたい、話したい、笑顔がみたい、ただそれだけで、それは恋なのだろうか?などともう正解が出ているにもかかわらず、僕はそうではない理由をずっと探していたーー


ーー休憩

頭は支配されたまま、ただお腹は空いている。缶コーヒーでなんとか空腹を誤魔化しながら、無限に人が行き交う廊下を行ったり来たりする。
何してるんだか…

スタッフから「あと5分です」の声。
がっくりと肩を落とし、ゆらゆらと気持ちを引きずりながら会場へ向かうしかなかった。


あっ…

ダランと背負ったリュックと水玉のブラウス…昨日とは違っても、その後ろ姿にすぐ気づいてしまった。
そっと彼女の後ろまで近づいて、昨日のお返しにと肩をちょんちょんと小突く…
振り返った頬に人差し指があたる。驚いた顔はすぐに笑顔に変わり、今度は頬を膨らませて怒った顔を作ると、すぐにまた飛びっきりの笑顔を返してくれた。

「来るの遅いよ」
「ギリギリだたね 寝坊したね」
「ほら、早く座りな」

ちょっと怒ったような”もおっ”て顔をしながら早口でまくし立てる…
ニヤニヤが止まらない。ごめんごめん…と彼女に困り顔を作って微笑みかける。
ーー気づいてしまった。
僕が彼女を探していたように、彼女は僕を探してくれてたんだ。
彼女は「イィーーー」て怒った素振りを見せてまたクスクス笑うーー



セミナーが始まった。
昨日の復習だ。

「ふたりでペアになって話し合ってくださーい」

スタッフから声がかかる。
ここで僕らは重大なミスに気づいてしまった。隣同士座ったけれどペアではなかったのだ。肝心なところでキューピットはやってくれる…ほんの少しだけの落胆。そう、僕と彼女は横を向くと背中合わせになってしまったのだ。

ただ、お互いの背中はわざとぴったりくっつけて。

体温を感じる…そんな不純な心が伝わったのか、彼女が後ろ手で僕の太ももを叩く。それはまるで「やだあ」という声が聞こえてくるように。

僕は、相手のおじさんの懸命な考察を「うん」とか「そうですね」とか適当に受け答えしながら、背中越しの彼女を感じるため、いつになく神経を集中させていた。
彼女がペアになった相手の女性に一生懸命話している声。それは小学校の先生が生徒を怒るイライラの話だ。「ワカル?ワカル?」と、それはもう昨日の僕の口振りそのままで、おかしくておかしくて、後ろ手で彼女の太ももをちょんと叩いた。

あっ…聞こえた?

と、彼女はすぐさま振り返り、急に恥ずかしそうな顔で

聞かないでよ…もう

と、また僕の太ももをちょんと叩いた。


ーーセミナーの中盤、横に座る彼女の太ももをちょんと小突き、小さい声で「お腹空いた」と言ってみた。それは朝からコーヒーだけで過ごしていたのもあるけれど…

しょうがないなあって顔…

椅子の下に置いてあったリュックからキャンディーを取り出すと、横目でチラッと合図する。声は出さない。そっと手を出すと、これはお国柄なのか彼女はわざわざ包み紙を剥がし、乳白色のキャンディーを取り出してポイっと手のひらに渡してくれた。「ありがと」と小さく口だけを動かす横顔を、クリッと横目で確認した彼女は目の動きだけで「どういたしまして」と応えてくれる。
心の中でアーンの口をしていたのは、感づかれてしまっただろうか…


ーーお昼休憩

ーー夕方からのセミナー

どちらもグループ行動がメインなので、僕らは離れ離れになってしまった。二人の3時間はあっという間なのに、別の人が隣になった3時間は無駄に長く感じる

ーー運命のいたすらじゃないけれど、このがっかりする気持ちってなんだろう…



「あと5分です」とスタッフ…
二日目の最終セミナーが始まる。
一気に200人が会場へ戻るため、通勤時間の駅ホームかと思わせる混雑が毎回起こる。ざわざわと、ガチャガチャと、パイプ椅子に着く大勢の受講者たち…

ーー離れていた時間を取り戻すかのように、僕らは休憩時間ずっと一緒にいた。
そして今度は大勢の人に紛れてもお互い見失わないようにと、ものすごい人込みを慎重に掻き分けながら、僕らは席を探した。

彼女は、僕の背中にぴったりとくっついて、両手の指先で腰の辺りのシャツをしっかりと摘みながらヨチヨチとついてくる。たまに小突いて急かしたりしながら…

セミナーは録音が禁止され、写真もだめ、それどころかメモすら許されない。スマホを見るなんて以ての外だ。

ただ、僕は今回こっそりと小さな紙きれとボールペンを用意していた。彼女と接近しているのが、石川さんという女性スタッフにバレ始めているのを薄々勘付いていたからだ。

彼女の視線はとても冷たい…それゆえ得体の知れない予感がずっと背中に張り付いて拭えず、それはもう慎重にならざるを得なかったのだ。


(続


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