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黄昏れ

「片付け終わったの──?」

と、一階のリビングから妻の呆れ声が飛んできた。
脚の赤色が少しハゲてしまったガラステーブルに突っ伏していた僕は、すっかりうたた寝をしていたようだ。

その声にビクっと反応して起きた僕は、

「もう終わるから──」

と、慌てつつも如何にもな返事をしていた。

◇◇◇

年末、「大掃除やるよ──」と妻に叩き起こされた僕は、疲労と寝不足気味な身体にムチ打って屋根裏部屋を整理することになった。

もう使っていないスキー板やパイプベッド、こいつらはサイズが大き過ぎて普通のゴミ収集車では持っていってくれないらしい。
役所に電話をかければ取りに来てもらうこともできるけれど、街外れにある環境センターに直接運んだほうが安上がりだと妻に言いくるめられたのだ。

いざ掃除を始めると、それは思いのほか大作業だった。
屋根裏部屋から不用品の数々を二階の空き部屋へ降ろし空いたスペースを雑巾で拭く。だだそれだけの作業にもかかわらず、狭いハシゴ階段を行ったり来たりする面倒な肉体労働に僕は参ってしまった。普段使わない筋肉が悲鳴をあげている。

疲れ切った僕はひと休みするため、立てかけたガラステーブルを直してコーヒーを置き、床へ腰掛け壁にそっと寄り掛かった……。

冬の午後はゆるやかに、密やかに。

陽が傾きかけた優しい日差しは、やがて部屋全体をハチミツ色に甘く溶かしてゆく。
きっと、窓から見える団地も黄昏色に染まっているだろう。

この感じ──

僕は初めて一人暮らししたアパートの一室をちょっとだけ思い出していた。

◇◇◇

もう三十年も昔の話である。

僕は、転職を機に東京の北区赤羽に引っ越すことにした。新しい職場が赤羽駅前のレストランだったからだ。
友人が先に一人暮らしを始めていてその憧れもあったけれど、初めての一人暮らしを決断するにはこれくらい環境の変化がないと思い切れなかったのが正直なところだ。

よくわからなかったけれど、とにかく現地の不動産屋を巡り歩き、あーでもないこーでもないと格安物件を一生懸命に探した結果、ようやく値ごろ感ぴったりなワンルームを発見することができた。

営業マンに連れられて部屋を内見する。

この部屋は、写真ではフローリングだと思わせて実はクッションシート、窓を開ければ隣の建物の白い壁がいきなり目に飛び込んでくるという風情ゼロの物件であった。
本当、写真と実際に見るのでは全然違うのだ。

それでも一人暮らしを目的に作られたその部屋は、簡易キッチンや冷蔵庫、エアコンまで設置されていて、僕の考える初めての”城”としては申し分なかった。

徒歩圏内にダイエーがあり、西友があり、近所にはフリーマーケットを開催する公園もある。
どうせ家にいる時間も少ないし……と、僕はこの部屋の契約をあっさりと完了させた。

◇◇◇

暮らしはじめると、職場の友人らが列挙して押し寄せた。駅チカで職場も近いという格好の餌食だったのだ。

たかが六畳余りの部屋である。大人たちが三人、四人と増え、六人を数えると大賑わいでそれはもう滅茶苦茶だった。

「焼酎買ってきたから飲もうぜ──」

「グラス、グラス、グラスないの?」

友人たちは気軽に言ってくれるが、こちとら引っ越してきたばかりである。

その他にも、皿を出せ、フォークを出せ、床にこぼしたから雑巾を出せとか、挙句の果てにはトイレットペーパーの替えを出せだの、無いものばかりを所望する友人たち……結局僕がその度にダイエーへ走る羽目になったことは言うまでもない。

実家にいれば、年に一回くらいしか使わない絆創膏や風邪薬、アルミホイルとかパイプクリーナーとか、そういう薬やキッチン用品、衛生用品などなんでもある。
一人暮らしを始めてまず驚いた一番は、自分自身がいかに世間知らずなのかを思い知ったことだった。

その後もダイエーに通う日々は続いてゆく。

とにかく楽しかったのだ。

小物を買い揃えていく悦びは忘れられない。
傍から見れば、ひとりニヤニヤしながら小皿五点セットなどを物色している男なんてきっと近寄りがたく、それこそ不気味な雰囲気を放っていたことだろう。
だけど、実家にいたころには叶わなかった自分好みのものが自由に揃えられる素晴らしさに気づいてしまったのだから仕方ない。根はオタクなのだ。

ただ、そうやって買い物を続けて部屋にモノが揃っていく過程でもうひとつ気がついたことがある。
これは、実家にいたころには気にも留めていなかったことだけれど、買い集めた家具や食器は、自分が稼いだお金で揃えた自分の分身そのものなんじゃないかなって。

それは形に残った労働の対価である。いま部屋にあるものは、全部自分の力で稼いで買い揃えたものであって、それは考え方によっては僕そのものなのだ。そのひとつひとつにちゃんと想い出だってある。

そのなかで一番愛着があるのはガラステーブルだった。
それは、ハードオフで売り出されていた中古品で、マガジンラック付きという飛びきり愛らしいフォルムを見た瞬間に気に入ってしまった代物だ。
僕は、ちょっとだけ気になっていた黒い脚をわざわざ赤く塗り直してさらにキャッチーなダイニングテーブルに変身させた。
そう、これは初めて買った自分だけの家具である。
冬になると、全く効かないエアコンを横目にそのテーブルの上にこたつ布団を掛け、床をホットカーペットで補強した。これがまた抜群に暖かく、自分天才と思ったりした。ガラスの意味が全くないけれど、それで構わないのだ。

暮らし始めたころは、このガラステーブルとテレビを床に直接置いて生活していたけれど、季節ごと、友人が押しかけるごとに様々なモノが買い足され、そうして引っ越してから一年を経たずして僕の立派な城は完成したのだった。

◇◇◇

そんな、とある冬の日の午後。
僕は珍しく風邪をひき、仕事を休み部屋で休んでいた。

体はだるく、ご飯もひとりではままならない。何か頼もうにも皆んなは仕事中だし、もはや寝ているしかないのだ。
それでいて寝過ぎているため眠ることもできず、ただぼんやりと天井を見上げたり、壁を見つめることだけが唯一出来る行動だった。

起きているのか、寝ているのか……

いつしか部屋の中が金色に染まりはじめていることに僕は気づいてしまった。
風邪のせいで頭がおかしくなったのか……
寝返りして窓を見る。いつもは隣の建物の壁しか見えない無機質なその窓が、いまは何故か金色に光を放っている。

いよいよ死ぬのか……
と、一瞬頭の中をよぎったけれど、

「さすがにそれはないか……」

と独り言ちて、フラフラしながら起きガラッと窓を開けてみた。

すると、そこにはすこし落ちかけているけれど、まだ夕暮れというほどオレンジ色になってない太陽がゆるやかに優しい光を放っていた。その光が壁に反射して部屋に差し込んでいたのだ。

この日、この時間。
部屋中にハチミツをぶちまけたような透き通ったその金色は、僕をやわらかく包み込み、そして静かに溺れさせる。
のろのろと布団に戻り、そのゆるやかな日差しの海の中で、僕は鼻の奥がツンとするのを感じていた。

そうして、誰に見られているわけでもないのに、目尻をゴシゴシと擦り「平気ですよ、僕は」という顔をなぜか演出していた。

一人暮らしとは、自由で、気ままで、そしてちょっぴり寂しいのである。

部屋の金色はやがてオレンジ色になり、ゆっくりと赤紫色から深い藍色に変わり、次に目を覚ましたときにはすっかりいつもの夜になっていた。

◇◇◇

なんとか時間ギリギリに環境センターへ到着する。

「この鉄パイプとか、スキー板とか、どうしたらいいですか?」

「そこんとこ投げといて──」

係員のおじさんはぶっきらぼうに言い放つ。
高性能焼却炉の威力は相当らしく、燃えるとか燃えないとか関係ないらしい。

僕は、車からパイプベットの鉄パイプを出し、スキー板を出し、そうして最後にガラステーブルを取り出した。瓦礫のように積み上げられた廃材の山の脇に、ガラステーブルの赤色の脚が一際目立っている。

「ここ、置いていきますよ──」

と、僕は遠くで作業している作業員に告げて車に戻った。

助手席の妻は、

「捨てちゃうんだ……」

とだけ言って、あとは黙っていた。

僕はすこしだけバックミラーを見つめると、再びエンジンかけて車を発進させた。

僕は、もうバックミラーを見なかった。
街は束の間のマジックアワーを終えていて、藍より深い夜に包まれた廃棄場を振り返っても、手を振る姿などわからないと思ったからだ。

それでも僕は、

「バイバイ」

と、胸の奥で手を振っていた。

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