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美しい場所に人はあつまる。山形だからできる街づくりを目指して<七日町御殿堰開発株式会社・結城康三>|三浦編集長in山形

JR山形駅からバスに乗って15分ほど、七日町の商店街に辿り着くと、縁石を廃した道幅の広い歩道が大通りに走り、多くの人が行き交っていた。

その一角にある商業施設「水の町屋 七日町御殿堰(ごてんぜき)」エリアに足を踏み入れると、それまでの空気感が一変する。

緩やかに流れる水路の脇に、柳が涼やかに枝を揺らしている。傍らに建てられた木造の和風建築と二棟の蔵にはお店が入り、その穏やかな風景に程よい活気を与えている。

片方の蔵の中には、群言堂の店舗「サテライトショップ群言堂 山形」が入っている。

店の軒先のところどころには、ちょうど時期であった紅花(べにばな・山形県の花にもなっている)の花束が掛けられ、訪れる人を出迎えていた。

ふと、植込みの周りで苔に生えた雑草を抜く方の姿が目に入った。

路面の飛び石の隙間を埋める美しい苔。そこに生えた小さな雑草を、ピンセットを使い一本一本、丁寧に抜いていく。

「美しい場所に人はあつまるから」

そう言ってせっせと草取りをするこの方が、今回取材させていただいた結城康三さんである。ここ御殿堰に店を構える呉服屋の四代目であり、御殿堰の開発を担った立役者でもある。

結城康三(ゆうき・やすぞう)
山形市・七日町御殿堰の呉服屋「結城屋」4代目店主。七日町の商店街活性化のため、山形らしい街をつくる再開発を目指し「七日町御殿堰開発株式会社」を立ち上げ、代表取締役を務める。

結城さんは毎朝、掃除や草取りを欠かさないという。

「この苔はお客様が持って来てくださり、水路の石の上から胞子が飛んで段々増えてきたんです」

古くから城下町として栄えた山形市。中でも七日町は戦後、百貨店の隆盛と相まって県内随一の商業の中心地として賑わってきた。しかし車社会の広がりや周辺都市の発展などもあり、近年は往時の賑わいは見られなくなって久しい。

商業集積地として賑わいを取り戻そうという意見もある中、結城さんはある確信を持っていた。

「今は買い物をしようと思ったらインターネットや郊外店もあるし、ここから車で1時間あれば仙台にも行けてしまう。だから昔のような商店街を甦らせるのは難しい。じゃあこれから人を集めるものは何かというと、それは僕にとっては”ここにしかないホンモノの空間”だったわけです。」

(写真:蔵の一つを再生した群言堂山形店の外観。右上部分が蔵になっている)

「ここにしかないホンモノの空間」というのは、インターネットにも郊外店にも真似できない、この町ならではの歴史や文化が息づく場所である。そこで結城さんが目を付けたのが、七日町を縦横に走る”堰”の存在だった。

「山形には山形五堰という、400年前のお殿様がつくった総延長約120㎞の堰があるんです。その一つが七日町を通る御殿堰で、山形城のお堀の取水用だったためにこの名前になったと言われています」

しかし、今やそれらの堰はほとんどに蓋がされ、暗渠として人知れず町の下を流れ続けているのだという。その結果、水が流れているのは知っていてもそれが御殿堰だと知る人は少なくなっていった。

(写真:店舗の一角には堰から上がってきたトンボのヤゴの抜け殻がついていた)

そんな折、今の御殿堰の場所に建っていた保険会社のビル(1Fを結城屋が借りていた)が売りに出されると聞いて、会社を作り出資金を集めて再開発をすることにしたという。

ビルを買い、もともと一帯の土地の持ち主であった岩渕茶舗(今も御殿堰に店を構える老舗茶舗)から土地を借り、蔵も買い取って工事に着手した。

「堰があって明治大正のお蔵がもともとあるところに母屋を新しく建てるので、何かと独自の色を出したがる設計屋さんに対してはとにかく何もしないでいいから、山形に昔からある建築のようにやってくださいと頼みました」

何度も設計図に赤を入れてダメ出しを重ね、最終的に現在の母屋が出来上がった。すべて県産材を使用した木造の母屋である。

そうして2010年に開業した御殿堰には結城屋、岩渕茶舗の他、米沢織の店、蕎麦屋やデザイナー奥山清行のショップ、カフェなどが入りテナントも充実した。

堰の作りに関しては市とも折衝しながら、コンクリート固めになりそうだったところを石積みにしたり、安全のため手すりがつけられそうだった部分も輪留めだけに留めたり、徹底的に景観にこだわった。

試行錯誤が功を奏したのか、今ではここに来る観光客はみな、堰と蔵を背景に写真を撮っているそうである。母屋は新築にも関わらず、訪れる人が「いつ頃の建築ですか?」「どこかから移築したんですか?」と聞くのだという。2011年にはそのコンセプトや木造耐火建築の実現などが評価され、グッドデザイン賞も受賞した。

「ここは言ってみればただの商業施設なんですよ。でもみんな商業施設の前で写真を撮っている。それは堰・蔵というホンモノがあって、うまい具合に母屋が入り込むことで、全体が御殿堰というホンモノの空間として見てもらえているということなんです」

(写真:堰の周りにはお店に寄るわけでもなく散歩する人の姿や、水遊びをする子どもたちがいた)

御殿堰ができてしばらくすると、意図せぬことが起きた。

最初は粘土だけで殺風景だった堰の周りに、見るに見かねた市民が河原から苔を採ってきて置いてくれた。農家の人が稲わらや干し柿を干させてくれと言って干していく。鈴虫を飼っているおじさんが、毎年夏に2~300匹を放してくれる。農業高校の先生がサークルで絶滅危惧種の翁草を植えてくれた。梅花藻を植えてくれるおじさんも・・・。

「稲わらや干し柿などは今や風物詩となりました。山形市民の方が、『ここの空間は自分たちの空間なんだ』と。ホンモノの空間があることで、自ずとそういう愛情が生まれていったんです」

(写真:再生した蔵のカフェの床板。接いである部分はイスの脚で踏み抜かれたのだとか。それもホンモノだからこそ・・・)

「再生すれば最初は綺麗だけど、だんだんホンモノの堰に戻っていくんですよ。まちづくりというのは、どんどんよくなるんです。逆に、商店街づくりは、つくった時が一番良くて、少しずつ老朽化していくんです。」

なるほど、結城さんがやっているのは、まちづくりだったのだ。

母屋の奥、母屋と蔵の間には松の木が生えている。それは、この敷地に種がとんできて芽が出ていたのを取り壊すときにとっておき、改めて植えたものだという。

「御殿堰の待つ」。そのうちに枝ぶりがよくなって、待ち合わせ場所に。忠犬ハチ公と同じように、シンボルになればいいなと結城さんは言う。それにはきっと、20年、30年かかる。

その松の奥には大黒さんがある。正月には「初詣は御殿堰大黒へ」というのぼりを出してはいるが、まだほとんど誰も来ない。でも、だんだん信仰が集まってきて正月に大黒さんに行こうとなれば、しめたもの。それには数十年かかるだろう。

子どもたちが堰に入って遊ぶ。だからといって店の売り上げが増える訳ではない。でも、子供たちが大きくなったときに、県外に行っていたとしたら戻ったときに「ここで遊んだよね」とか、山形にいるのであれば自分の子どもを連れてきて「ここで遊ばせよう」と言って再来してくれるかもしれない。

「商店街づくりというとすぐに効果が出ないとと言われます。でもそうじゃない、時間がかかるんですよ、まちづくりというのは。流されちゃダメなんです」

(写真:共に呉服屋を切り盛りする奥様と)

群言堂がなぜこの場所に出店したのか、結城さんの話を聞いて初めて深く理解できた気がする。御殿堰の物語は、過疎のどん底だった30年前の大森町に店を開いた群言堂とも重なる。

テーマパークではない、本当の空間。歴史や文化、土地の人の想いが蓄積された場所。それが形になるのには時間がかかる。しかし、一度根付いたら他のどこにも真似できない、独自のものになる。

御殿堰はこれからもこの七日町で土地の人と共に日常を重ね、まちの風景を作り、新たな歴史を紡いでいく。

きっとどんなところにも、歴史のない場所なんてない。過去の蓄積を引き継ぎ、新たな視点で”今”の息吹を吹き込んでいく結城さんの生き方は、これからの時代を生きる私たちにとっても大きなヒントとなるのではないだろうか。

<おわり>