自分と向き合ったところで問題が解決するわけではない(エッセイ)

炎上しそうなタイトル(苦笑)。

自分を解決すれば、物事のすべてを片づけることができるほど人生というものは甘くない……というか、人間社会による承認が必ずされるものでもないということを私は言いたい。

正しいは誤解である、と、ある小説に登場するキャラクターが言っていた。

光だけじゃない。

当然、闇もある。

両方持っているのが、人間というものなのかもしれない。

この人は光である、という判断――ちょっと待って。

その人は「光である」ということを強調して、あなたに味方になってもらいたい「だけ」なのかもしれない。

要は信者を増やしたい、と思っているから「光である」と強調して特別な存在であるとアピールしているようなものだ。

その人は誰かにとっての特別になりたいだけなのだ。

気持ちよくなりたい、感謝されたい、気づかせてくれてありがとうと言って、という感覚が、その人には備わっているような感じがする。

正直、平均寿命年齢の半分も生きていない私が言うのもなんだけど、そういう人が現れたら、その人の元をそっと去るくらいは、やってもいいのかもしれない。

傷つくような言葉を言って「洗脳」する人だと私が判断したとき、やっぱり私は「合わないな」って思うだろうし、ズルズルその人の近くにいすぎても悪いなぁ、と思う。

自分が成長する機会を与えてくれてありがとう、という場面って、自分がそこで頑張りたいから出るものであって、その場所では、これ以上頑張れないよ、という赤信号が灯ったら……離れるべきかもしれない。

自分が頑張らなくたって、自分以上に頑張っている人なんて、たくさんいるんだから、限られた人生の中で取捨選択するスキルのほうが重要な気がする。

どう思いますでしょうか?

それでタイトルについて伏線回収していきますね。

自分と向き合ったところで問題が解決するわけではない、ということについて、です。

これは勝負の世界の問題に関することですね。

いろんな物差しがあるから断言できるものではないかもしれないけど、勝負の世界には平等は存在しないので、その勝負の世界が嫌になったら諦めるのも手段のひとつだと私は思う。

ただ、この勝負の世界の物差し、現実世界の一般人にまで侵食してきているように思えます。

副業をしなければ生きることが困難になっている時代ですから、何かスキルを身につけなければいけない必然性が生まれているような気がします。

そのとき、自分と、どう向き合うか……というより、自分はどれだったらたくさんのお金を儲けることができるかなぁ……というところだと思う。

人には向き不向きがあるし、その点は絶対に平等に調整されるものでもない。

遺伝子なのですよ。

でも、その遺伝子をどう活用するかは、私たちが決めていくことです。

結局のところ、問題は解決しないかもしれないけど、どう自分を使うかは、私たち次第。

というオチで、どうでしょうか?

お読みいただき、ありがとうございました。

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