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黒い染み(短編小説)

 いつもの朝だ。だが果たしていつもの私だろうか。昨夜は少し張り切り過ぎて腰が痛い。
 妻が朝食の支度のためにキッチンへ立ったのを確認して寝室にある姿見に全身を映してみる。
 特別変わったところはなさそうだ。だが普段からあまり鏡を見ることがない私は変化に気付かないだけかもしれない。いや堂々としていれば大丈夫だろう。いつものように過ごそう。

 朝の決まり事であるコップ一杯の水を飲むためにキッチンへ向かう。
 朝の挨拶を交わすことがなくなった私に、妻は決して私の邪魔にならないようにキッチンの中で流れるように立ち位置を変える。それは互いの身体の一部が少しも触れてはいけないことのように感じることさえある。そういう時、妻を抱きしめたい衝動に駆られることもあるが、冷え切った夫婦関係にそれは決してプラスにならないことを私はよく知っている。

 朝食のためにテーブルに着く。私が平日家で食事するのは朝食だけだ。それを心得ている妻は基本的に醤油に合う料理を用意してくれる。
 私が生まれたのは醤油の産地で小さい頃から無類の醤油好きだった。母からは醤油を掛ける前に一度味見して薄いと思ったら醤油を掛けなさいとよく小言をもらったが、もはや醤油がないと始まらない。だが家の中だけの話だ。外では決してやらない。

 私は自分の好みに合った醬油を使っている。別に私専用ではないのだが、妻が醤油を必要とする時は別の醤油を使っている。好みの問題だろうか。

 朝食の用意が整ったようだ。妻は何も言わず先に食べ始めるが、私は一応の敬意をはらうことにしている。
「いただきます」
 すると妻はいつも通り「はい」と返事をする。

 冷奴は一番醤油に適した料理だ。醤油も豆腐も基を正せば大豆なわけで、大豆と大豆の共演に舌鼓を打つ。続いてアジの開きにも醤油を掛ける。魚は全体的に醤油に合う。味噌汁にも数滴醤油を足す。
 醤油について私は変な癖を持つ。それは醤油差しを持った手首をぺこりとお辞儀をするように曲げることなのだが、元々は幼い頃、醤油差しの注ぎ口から零れる醤油を切るための仕草だった。今やそれは形骸化し形だけが残っている。
やめても何の問題もないが癖というのはなかなか治らない。一度はやめてみたのだが何となく物足りない思いになった。細かいことが気になるのは私の悪い癖だがこれもきっと延々続くのだろう。

 さて仕事に出掛けよう。妻は一応玄関まで見送ってくれる。そういえば巷でよく聞く行ってきますのチュウとやらは新婚の頃もなかったな。今更やるつもりは毛頭ないが。

 一度家を出てしまうと妻や家のことはすっぱりと忘れる。新婚当初は今頃なにしてるだろうと思うこともあったが、今や妻も自由に習い事をしたり、友人と食事や観劇、旅行に行ったりしている。さすがに泊りが生じる時は知らせてくれるがそれ以外は帰宅が深夜になろうが自由気儘に行動しているようだ。
 一方の私も不景気な時も世の中が流行りの病で閉鎖的になった時も平日は早く帰ることはない。
 もちろん接待で遅くまで酒を飲まされることもあれば、フィットネスジムで汗を流すこともある。だが一番多いのは彼女の家でくつろいでいることだろうか。

 今の彼女は若いからかセックスが大好きなようだ。
 まず玄関を入ると飛びついてきてキスをする。そして靴を脱ぐより先にパンツを下ろされる。しばらく口で楽しむのだそうだ。しかし最後まではしない。後のお楽しみだという。丁寧にパンツとズボンを履かせてもらいようやく靴を脱ぐ。食事をし風呂に入りベッドへ行く。彼女が一番望み、本領を発揮する場面の到来だ。
 彼女は基本的には騎乗位が好きなようだ。つながると腰をゆっくり、また激しく前後に振り続ける。絶頂間際になると徐々に声が高く大きくなる。そして自分だけ気を遣って果ててしまう。2~3度に1度はこちらが先に終わってしまうのだがそれで不平を言われたことはない。

 しばしベッドでくつろいだ後、戦闘モードから帰宅モードへ切り替えだ。
 もう一度風呂に向かうが、シャンプーやリンス、ボディーソープに至るまで家と同じものを揃えさせた。さらに香りのするモノは香水にいたるまで私の指定したものを使用するようにした。
 以前はフィットネスジムに行っていることにしたのだが、汗で汚れているはずのトレーニングウエアが濡れていないという失態を一度だけやってしまった。それ以来家と同じ香りの環境をつくり今にいたっている。

 帰りの彼女は意外にあっさりしている。自分の受け持ちは終わったということだろうか。特に彼女に不満はないが妻と別れて一緒になる気はない。それは最初からの決め事で彼女も了承している。


 翌朝、いつもの朝食が始まる。
「いただきます」
 珍しく妻がそう言った。
 今朝の妻は普段より少し機嫌がいいようだ。何かいいことがあったのだろうか。いずれにせよ妻の機嫌がいいのは歓迎すべきだな。
 外に女がいるくせにこんな言い方も変だが、ひょっとすると私はまだ妻のことを愛しているのかもしれない。
 そう思いながら醤油差しを傾ける。


[完]

青豆ノノさまのお許しを得て「黒の代償」に登場する夫目線のお話を書かせていただくことにしました。
ノノさまの描かれるタッチとは全然テイストが違うので上手く書けているのか心配です。
ノノさま、改めてありがとうございます。


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