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『一陣』第四章

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第四章

 豊五郎が捕まった、そう聞いたのはあれから一月以上経ってからの事だった。やっぱり、と、思った。父は皆に慕われていた、きっと皆の分まで憤るし、皆の分まで声を上げる。そういう人だからだ。だから尊敬していた。でも危うくも思っていた。死罪になるのだろうか。悪いのは俺たちを先に苦しめたお上の方なのに、そんな彼らに裁かれるのか。一揆は成功したと聞いているし、なにやら他の地も呼応するように騒がしくなっているらしい。父は偉大だ。なのになぜ裁かれる。行き場のない怒りをぶつけるように、俺は乱暴にひたすら店の掃除をした。なぜ俺はここにいるんだろう。父に会いたい。会って、尊敬している、大好きだと伝えたい。また頭を撫でてほしい。
長く続いた江戸の世には、陰りが見えている。そう大人が話しているのを聞いたが、俺は俺のことで、家族のことで精いっぱいだった。
「豊松、そこにしまってある布地は高価なんだ、もっと丁寧にやんな。」
年上の手代に言われ、俺は押し黙ったまま少し雑巾を握り締めた手を緩めた。俺はここで何をしているんだろう。たった一人に感じる。全てが遠く感じる。
 長屋へ行きたい、そう思った。いろいろな生活を感じて、心をここに取り戻さねば。そうして父の裁きをちゃんと聞くんだ。ちゃんと知るんだ。ちゃんと想うんだ。
 
 「庄助さん……長屋へ行ってもいいですか。」
彼は黙ってうなずいてくれた。きっともう父のことを聞いているのだろう。こういう時に言葉を無駄に並べたりしないところが好きだ。安心する。
 長屋では、庄助の隣の部屋の者が打ち水をしていた。夕方の紅い光にしぶきが光る。それは女だった。やけに厳しい顔をしていた。
「庄助さん、俺の、俺の父は、死罪になるのかな。」
独り言のように吐いた言葉は、女が撒く水にも打ち消されてしまいそうなほど弱弱しかった。こんな弱音を吐いてしまうのは父も望んでないはずだ。でも誰かに縋りたくてしょうがなかった。
「……どうだかね、俺には何とも……。ただ、良ければ流罪だろう。生きてはいられる。」
「おっとうは、悪くない。」
俺はまっすぐ前を見ながら強く言った。
「父は、悪くないです。年貢を上げる、俺たちの食い扶持までもってくお上が悪いんです。なのにそんなお上に裁かれるんですか。別の人だから、別だから、そんなことができるんだ。同じ血が流れているのかな。俺もう分かんないです。お上って何ですか。人ってなんですか。なんで人が人を勝手に裁くんですか。父に刑を言い渡す奴は、その夜豪華な飯を食べるだ。俺たちが作った米を食べるんだ。俺たちが食わせてやってるようなもんじゃないですか。なんで父が、父だけが裁かれるんですか。」
「豊松、とりあえず中に入れ。ちょっと休んだら、今日は帰れ。帰ってたんと食わせてもらえ。お前はいま生きなきゃならん。考える前に生きるんだ。飯を食え。よく眠れ。そうして仕事をしろ。……お前の親父だってそれを願ってるはずだ。お前の息災をな。」
狭い部屋に座り込むと、途端に自分が、自分の心が大きすぎて息ができないような気になった。この部屋に、俺の苦しみは大きすぎる。
「豊松、俺はな、そりゃ自分の出を呪ったこともあったよ。俺なんか三男坊だ。こんないい店で番頭を任されているなんて信じられない生まれだよ。俺の親父だってお袋だって年貢に毎年ひいひい言ってた。一番上の兄貴がお袋の分まで多めに食ってた。俺にも分けてくれたけど、そういうことをしないといけない家なのを呪ったさ。なんでこんなに苦しいんだってね。いいご身分の奴らの為に、なんで俺たちが飢えなきゃいけねえんだって。だけどな、考えても腹は減るし、眠くもなるんだよ。朝が来たら親父たちを手伝って田んぼに出にゃならん。また食べて、仕事をして、寝て、起きるんだよ。毎日回ってるんだ。俺たちは毎日を回るしかないんだ。俺たちは俺たちで生きるしかないんだ。考えても仕方ないことに悩むより、お前はお前を大事にしてやれ。お前としてここで、一生懸命生きるんだ。それが生きるってことだ。悩んでもな、苦しんでもな、毎日に溶けてくんだ。そうやってみんな歳をとって死ぬんだ。一人が考えられることなんてそう多くないんだ。余計なものをしょい込まないで、お前はお前を生きろ。」
庄助がここまで言葉を尽くすのを初めて聞いた。なんだか虚しい。食べて、寝て、仕事をして、また寝て、……そういう毎日を生きるのが、生きるってことなのか。それって生きているのかな。俺は俺の苦しみを、そういう日々で薄めながら生きるしかないのかな。
 おっとうはきっと、薄められなかったんだ。だからきっと立ち上がったんだ。じゃあ俺は。俺はどう生きたらいいんだろう。

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