見出し画像

母の戦争(78回目の8月15日)

私が関係しているあるこども園から、現在89歳の母が体験をした戦争について子ども達に話して欲しいと依頼され、母と共にこども園に行ったのは、ちょうど8月9日、長崎に原爆が落とされた日だった。

依頼された後、母が語る戦争の体験を私がインタビューし、まとめた原稿を見せると、声に出して読みながら、嗚咽を始めた母。

私が
「お母さんが話したことをまとめたんだよ」と言うと、

「本当にこうだったんだよ」
「でももっともっと悲しかったことや辛かったことはいっぱいあったけど、子ども達に語るのだからここまでだよね・・」
と母。

「泣かずに話せるか心配だけど、もしダメになったら恵子が私の思いを代弁してね」
と言っていたが、語りだしたら、原稿を膨らませて子ども達に伝えていた。

その姿は、最近痩せて体力が弱っているとは思えないほど、声にも張りがあり、元気よく子どもたちに語り掛けていた。場が与えられて、生気がみなぎる、そんな姿だった。

母がその場で語った言葉を録音しておけば良かったと少し後悔しているけれど、今日8月15日に、まとめた原稿を元に、「母の戦争」について書いてみたい。

なお、これから書くことの全てを子ども達に語ったわけではない。
やはり、直接的な死を語るのは避けた方が良いと思ったから。

ここでは母が今までに私に語ってくれたことも含めて「母の戦争」の一部をまとめてみたい。

母は子どもの頃、群馬県の藤岡に住んでいた。
藤岡には空襲は落とされなかったが、前橋や高崎、太田、また東京に向かっていく飛行機が連隊で母たちの頭の上を通りすぎていく。
通りすぎるまではいつ自分のところに落とされるかわからなかったので、防空頭巾をかぶって頭を押さえて離れるのを待っていたという。

警戒警報の音は、連続したサイレン、そして空襲警報になると、サイレンがとぎれとぎれになり、泣いているように聞こえたそうだ。

防空壕も女・子どもで作った。(男の人はほとんどいなかった)
でも雨が降ると穴が水浸しになり、使えなかった。
中には防空壕に逃げて、逆に丸焼けになった知り合いもいたという。

東京や県内でも空襲が始まってからは、敵機に見つからないように、窓には黒いカーテン、窓ガラスにはテープを貼って、爆撃を受けたときに飛び散らないようにした。
また夜は電球に黒いカバーを付けて、灯りが漏れないようにしていた。
警報がなったら夜中にいつでも逃げられるように枕元には防空頭巾と下駄を置いて寝ていた。
その頃には、運動靴などはなく、子ども達はみんな下駄を履いていた。
時々、学校で運動靴の配給もあったが、母がもらえることはなかった。
その配給には順番があって、
戦争でお父さんを亡くした子ども、
戦争にお父さんが行っている子ども、
が優先で、私の祖父(母の父)は、高齢で母を生んで戦争には行かなかったため、順番はいつも最後だった。
足袋もないから常に裸足。真冬も裸足で下駄を履きいつも足が擦りきれていたという。

戦争が激しくなると、学校で授業を受けることができず、隣組の家でみんなでまとまって自習をしていた。先生が数回巡回にきたけれども、みんな勉強などせず、家の手伝いをしたり、小さい子の面倒を見ていた。
庭で遊ぶこともできず、大きな声で歌うこともできず、の毎日。

母が一番つらかったのは、食べ物がないこと。
まだ小学生だったので食べ盛り、さらにご飯が大好きだったのにお米がなくて(お米は軍用米として出してしまう)いつもさつまいもやかぼちゃがほとんどのごはんで、悲しかった。
芋についているご飯を箸で取って、最後にご飯だけをまとめて食べる時が嬉しかった。
でも母は栄養失調になってしまい、夜盲症になり、夕方から何も見えなった。
お米、みそ、しょうゆ、砂糖、マッチ、肉、衣類はみんな配給制になってなかなか手にはいらず、でも「欲しがりません、勝つまでは」と我慢した。

戦争が終わって嬉しかったことは、暗幕を取り外し、夜も明るかったこと、枕元にあった下駄を玄関に並べられたこと、
そして、学校に行けるようになり、お友達と外で遊べたこと。
食べるものは相変わらず豊かでなく、みんな子どもたちがやせ細っていたけど、それでも希望はあり、みんなの表情は明るかったのを覚えている。

ただ、それまで学んだことがすべて嘘だったことも知った。
薄っぺらい教科書も、「墨ぬり」(教科書に間違っているところに墨で線をつけた)をするのが授業だった。

戦争中、それも日本が勝ち進んていたときは占領したところに、日本の旗をつけていた。
特に母がとても覚えていたのは、シンガポールに旗をつけるときに、学校の先生が
「今日から、ここは『昭南島』と言う名前になりました」
と言ったこと。

日本はたくさん犠牲者も出した。とてもむごく悲しいこと。
加えて日本がたくさんの人や国を痛めつけ、罪を犯してことも忘れてはいけない、と常に言う母。

敗戦して、仮にも学んできたことがすべて違っていくことを経験したそうだ。
だから、「私は基礎学力がないのよ」と寂しそうに笑って言う。
 

こども園の子どもたちに語ったのは、約15分。
この記述の中では、空襲が怖かったこと、夜が暗くて怖かったこと、食べ物がなかったこと、そして、戦争が終わって嬉しかったことを語った。

母は、最後に子どもたちに語った。

「私は戦争が大嫌いです。
二度と戦争を起こしてはいけません。みんなはそのことをぜひ覚えておいてください。」

そして
「戦争が起こらないようにするにはどうしたらいいと思う?」と語りかけ、

「戦争は絶対起こしてはいけないということを忘れないこと、そして戦争が起こりませんように、と祈ることです」

さらに、
「ここにいるお友達と仲良くすることも戦争のないことに繋がります。
お友達や家族と仲良く、世界中の人と仲良くしてください。
身近な人と仲良くすることが世界の平和に繋がります。世界の人とも仲良くすれば戦争は起こらないと思います。みんなで仲良くしていきましょう。」

と言ってお話が終わった。

私は子どもたちの後ろから話を聞き、子どもたちの様子も見ていた。

特に年長の子どもたちは背筋をまっすぐにして、母の顔を見ながら、よく話を聞いていたのが印象的だった。

戦後78年経ちました。
戦争を語れる人広島、長崎、沖縄の方々も、若くても80歳を超えています。

戦争の話をするのは辛いことも多い。それでも、語る人がひとり、また一人といなくなると、また戦争が近づくのではないかと心が痛みます。
でも、戦争を体験していなくても、歌や詩などでメッセージを伝え続けている若者がいることも知っています。

戦争を体験した人の話を聞く機会・・
今回のこども園の子どもたちに少しでも伝わるといいなと思いました。

そして、二度と戦争を起こさない国になってほしい。
また世界中から戦争がなくなりますように、と祈り続けたいです。

未来に希望が持てる平和で明るい社会になってほしいと願います。

今回は、「母の戦争」の一部をまとめました。
実は「父の戦争」の話もあるのです。

私の父と母、それぞれがまだまだ重い体験をしています。

いつかその話も出来たらと思っています。


動画が見つからないため、歌詞のみ記載します。

【こころかさねて~長崎の空から】

辛い時こそ支えあえるよ
泣きたいときこそそばに居よう
私達は家族 わたしたちは兄弟
今 心重ねて歌おう
長崎の空から世界中の空へ
本当の平和をこの手に
長崎の空から世界中の空へ
一つになろう(ひとつに)
喜び悲しみ分かち合おうよ
乗り越えられない試練などない
私達は誓う 私たちは祈る
さあ心合わせて進もう
長崎の空から世界中の空へ
本当の愛をこの胸に
長崎の空から世界中の空へ
一つになろう(ひとつに)
長崎の空から世界中の空へ
本当の平和をこの手に
長崎の空から世界中の空へ
一つになろう(ひとつに)

今も世界では戦争が続いています。
世界中が戦争のない、争いのない
平和な世界になりますように💛


#戦争
#平和
#8月15日
#終戦記念日
#母
#平和を祈る
#願い
#長崎
#広島
#沖縄

サポートありがとうございます!感謝感激です💛