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これっぽっちな私の死生観

突然ここに書き残すこともどうかと思いますが、
精神科・心療内科・カウンセリングに通うことは、恥ずかしいこと、惨めなことじゃありません。
ちなみに私も16歳の頃から今でもずっと通っています。心って、自分じゃどうにもできないことがあります。心の奥ではそう思っていなくても、自ら死を選ぶこともあります。少しヘビーな内容ですね。



海外ではこうなのに、日本ではこうだということはたくさんありますが、良くも悪くも自己責任の念が強いことが大きな特徴の一つだと思うのです。お国柄、というやつです。自分が日本人であることに誇りを持てることと、持てないことが私にはありますが、社会の変容が前を向いていないことが多いここ最近は、「問題は自分でどうにかしなければ恥ずかしい日本人」がちらつくことがあります。


私が大好きなamazarashiの秋田さんは、いつかの日記で「自殺者は被害者だ」と綴っていたそうです。
文字の通り「自らを殺す」こと。加害者は誰でしょうか。
自己責任だから本人?
私は加害者は社会だと思っています。特定の個人ではなく、生み出す社会にあるのだと思います。このことに社会全体が気づいてくれるのには、何年かかるのでしょうね。


今回のテーマは私の中で「死生観」にしていたのですが、少し逸れてしまいました。すみません。

生きているものはいずれ死んでいくのは当たり前ですが、それはなぜなのかと、就寝前に悶々と考えていた思春期だったあの頃。

死ぬために生きるというのは少し悲しいですよね。まだまだ考えはまとまらないままですが、私は「生きていくために死ぬ」のだと言い聞かせています。人間とは単純ですから、終わりがないことは退屈に感じてしょうがないと思います。終わりがないと一生懸命にはなれないのです。

結局は悲しいことには変わりがない。

祖母の死に真正面から向き合ったときに、後悔しないようにとほぼ毎晩病院に通っていました。ちゃんと死に目には会えた。なのに後悔は無くならない。拭っても拭っても無くならない。それが死ぬことなのだと実感しました。忘れないための鎖のようなものだと。
いっそタイムマシンでも作って、「まるで自分はただの家政婦のような人生だった」と泣いていた祖母に会いに行きたい。会って「笑顔が可愛くて、いつも一生懸命で優しくて、寝相が悪い私の布団を直しに夜中に起きてくれる。そして少し負けず嫌いなあなたが大好きだ」と伝えたい。
それでもきっと後悔は無くならない。

けれど、そうやって「残された人」は生きていくのだと思いました。

そう考えると、お葬式というものは亡くなった人のため、というよりも、「残された人のためのもの」に見えて仕方がなかった。

私のためだった。





「儚い」という短い単語で表すことがもったいないほどに、「儚い」ものです。







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