見出し画像

箱根駅伝を最初に教えてくれた人たちの話〜高校生⑥〜

インターハイの道が絶たれてからは夏の練習に首ったけ。自分もそうでしたが、先生ののめり込み具合といったら、まぁすごいもんでした。先輩方の想いを含んだ「重い襷」は責任重大。当時国語の授業で作った短歌があります。

先輩の 想いを胸に 今年こそ
走ってみせます 都大路

我ながらよくできた詩だなと自画自賛(笑)この授業のことは今でもよく覚えています。ただ、この詩には元ネタがあって、当時高校生で圧倒的に強かった西脇工業の選手が「走ってみせます13分台」(←当時高校生で5000mを13分台で走る選手はほとんどいなかった)というハチマキをつけていました。それがめちゃくちゃ格好良てこっそり拝借。歯切れのいい言葉ですもんね。ちなみに、授業中に投票で一番になって図書券をもらいました。元ネタがバレなくてよかったぁ。


■東洋大学の学生

夏といえば夏合宿。普通の公立高校だったので、決して練習環境が恵まれていたわけではなかったのですが、先生もかなり色々と工夫してくれました。この年は東洋大学から2人の学生が来てくれて練習を引っ張ってくれました。今でこそ強い東洋大学のイメージが定着していますが、当時はまだまだ予選会常連校でシード権当落線上のチーム。それでも憧れの箱根駅伝を走ったことがある選手が来てくれる!?とあって、単純に楽しみにしていました。

第一印象はただただカッコイイ(笑)ミーハーでしたね。ただ、本人たちは少しバツが悪そうな感じがあって初めましての表情は硬かったです。まぁ、当然ですよね。大学の練習を抜けて高校生の合宿の「お世話」をするなんて、迷惑な話。しかも実は2人ともまだ箱根駅伝に出たことのない控え選手だったので、こんなことをしている場合じゃないって想いはきっとあったでしょう。

4年生のネノイさんと2年生のマツヤマさん。2人とも派手な感じの大学生ではなく、カッチリ練習を引っ張ってくれました。そして、練習以外にもいろんな話をしました。大学生の苦悩、箱根に対する想い、5000mをいかに14分台で走るか、などなど練習よりもこっちの方が貴重だったかもしれません。

毎日の練習を通してだんだんとお互いに物が言えるようになり、頼り甲斐のあるお兄さんといった感じでした。今となっては偉そうに色々と言えるのですが、きっと2人の大学生にとっても高校生の練習に混じって常に先頭を引っ張るという経験は意味のあるものだったでしょう。誰かに技術や想いを伝えるのって簡単なことじゃないですが、だからこそそういう場面があれば人は大きく成長します。これで2人が箱根駅伝で活躍してくれたらすごい美談になったんですが、世の中そんなに甘くなかったです。

その年から東洋大学のことは少し特別な想いで応援するようになりましたが、その年もその翌年も東洋大学は箱根駅伝に出られませんでした。勝負の世界ってホント厳しいですね。ネノイさんにとっては最後の箱根駅伝。チームがその舞台に立つことすらできませんでした。どんな想いで過ごしたんでしょう。その時は想像することしかできなかったけど、今なら理解できると思います。

そしてもうマツヤマさんの方は監督が川嶋さんに変わってからチームをクビになったと聞きました。川嶋さんは東洋大学が2年連続で予選会敗退だったことからテコ入れで召集された監督。かなり厳しかったそうです。チームをガラッと変える時には必ずそういった激震が走るものですが、マツヤマさんはその波にうまく乗れなかったんでしょうね。

2人には今でも感謝しています。箱根駅伝を最初に教えてくれた人たちでした。2人にとってその後の陸上人生がどうなったかは今となっては知る由もありません。走ることだけが人生じゃないし、それで生きていける人なんてほんの一握り。でも、できる限り幸せであってほしいなとおこがましくも思います。

■1年ぶりの自己ベスト

さて、僕はというとその年の北陸選手権で1年ぶりの自己ベストが出ました!5000mで15分06秒。ネノイさんと約束した14分台には届きませんでしたが、8月末の暑い中のトラックレースで出す自己ベストには大きな意味がありました。ようやくヤマシタ先生の表情にも笑顔が見えて、安心したのを覚えています。

2年生の夏は熱かったです!夏合宿はもちろん、通常の練習も熱心に走りました。望んでいた程ではないにせよ、秋につながる結果も出ました。

チーム全員で戦う駅伝!夏が過ぎて高校生活も折り返しに差し掛かった9月。2回目の駅伝シーズンが始まりました。

最後までお読みいただきありがとうございます。現在様々なメディアで情報発信しています。サポートいただいた分はメディアの運営に使わせてもらおうと思います。