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高校教師を経験した自分が、自分自身の高校生活を振り返る話〜高校生①〜

高校編スタートです。平たく言うと、かなり苦労した高校生活でした。結果も思ったように出ない、部活の雰囲気が中学校までと随分違う、そういった悶々とした時間が長かった3年間でした。陸上を辞めたいとも思った時期もあります。

ただ、今の自分がその当時の自分を振り返ると、グーパンチしてやりたいような場面もたくさんあり、まだまだ若かったですね。そんなお話をしばらく書いていこうと思ってます。

■高校生活スタート!

北陸新幹線が開通して以来、“石川ブランド”は随分上がったように思います。石川県が出身というと、「あら、いいわね」と言われることが多いのですが、実際は金沢駅周辺の賑わいがずっと続くわけではありません。駅から車で30〜40分も走らせればびっくりするような田舎風景が現れる、、地方ってどこもそんなもんですね。

僕が進学した高校は普通の公立校。陸上競技部が有名なわけでもなんでもありません。高校を決めるときに、陸上競技がガッツリできる私立の学校にするという選択肢もあったのですが、それは選びませんでした。片親だったので少し親の財布を気にしていたところもありましたし、何より走ることだけになるのがちょっと嫌でちゃんと勉強もしたいという思いがあったからです。もしかしたら、ここも自分にとって人生の岐路になっていたかもしれませんね。

入り口には大きな門がありました。高校のランドマークみたいになっていましたね。ここを通るのが誇らしかったのですが、いつしか玄関はほぼ使わず、部室から近い裏口が毎朝の登校口になっていました。

全国中学駅伝、そして1月末に広島で行われる都道府県対抗駅伝にも選ばれていたので、受験勉強らしいことは2月ごろからスタートしました。テツオ先生の手ほどきもあり、合宿中も勉強時間を確保されていたことが良かったんでしょうね。たった1ヶ月の勉強でしたが、無事に合格できました。進学先は金沢泉丘高校、県内でも名の知れた進学校です。

「高校生」というと非常にキラキラしていて、華やかなイメージを当時は持っていました。垢抜けたいと思う気持ちは誰もが持つ自然な気持ちでしょう。ただ、実際にはそんなキラキラとは無縁の高校生活が待っているとはその時は想像もつきませんでした(苦笑)

■団結、摂生、工夫

当時の陸上競技部に入った瞬間の衝撃をいまでも覚えています。練習が始まる集合の合図がかかるや否や、先生の前に整列。そして一礼して顔を上げてから大声で「お願いします」と言う独特のスタイルでした。軍隊?と見紛うような光景でしたし、実際に他校からはそう揶揄されていたみたいです。

当時の顧問の先生はヤマシタ先生。スラムダンクの若き日の安西先生(ホワイトヘアーデビル)を想像させるような先生でした。テツオ先生とはまたタイプが違い、でも陸上競技のことに関してはすごく詳しかったです。専門は短距離だったので、別にコーチの先生がきてくれていましたし、OBの先輩も時々練習をひっぱてくれるというなんとも贅沢な体制だったことはとても恵まれていた思います。

当時の高校には部訓というものがあり、それが「団結 摂生 工夫」でした。この中でも「摂生」が特に重視されていて、生活面での規律は非常に厳しかったです。食事の制限、挨拶、服装、男女交際に至るまで、イロイロ。競技において大事な場面で勝つか負けるかを左右するのは精神の鍛錬ということ。高校時代は結構これに悩まされたのはもう少し先のお話です。

日本海駅伝にて。高校時代もいろいろな大会に出ましたが、やっぱり駅伝が好きでした。

そして、自分で選んだ進学先ではあったのですが、とにかく勉強が大変でした。入ってすぐにこれは大変なところに入ってしまったなと思うくらい周りの友達が勉強慣れしていました。どこの中学でも優秀と言われた子が集まり、その中で序列が出来てきます。僕は残念ながら序列下位が定位置で、しんどい思いをしながら毎日の勉強に追われていました。

垢抜けなんて考えている余裕はなかったですね・・・

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