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「弱さ」を突きつけられた話〜高校生⑤〜

勝負強い人間になりたいものです。。

こう書くってことは勝負強くない自覚があること、そしてそれをなんとかしたいと潜在的に思っているということでしょう。勝ちきれない時期も勝ちまくった時期もありますが、総じて自分の競技生活全体を振り返ると勝ちきれないことの方が多かった気がします。

理由は結構精神論的なものになるかもしれませんが、一流と二流を分ける紙一重な部分ってここかもしれません。

■インターハイへの想い

今年こそはインターハイに出る!そんな気持ちはとても強かったと思います。これは競技者としての本能でしょうね。努力しているとかそれが足りないとか、そういったものを自覚する以前の心の動きです。実際に今年は行ける!という根拠のない自信がありました。

正確には根拠のない自信というよりも、去年はこれくらいだったから、今年はきっとここまではいける!という希望じみた楽観的観測だったのかもしれません。

インターハイ出場をかけた”最後の砦”は北信越大会。高校二年生の時は新潟県で行われました。

■5000m決勝

当時、北信越地区で頭一つ抜け出てたのがシオカワさん。卒業後に駒沢大に進学して四年連続箱根駅伝を走って全て優勝した「強い駒沢」で活躍したスター選手です。高校時代もすでに強かった!

前年の駅伝で数秒差で負けたのですが、その時でも実力はそんな僅差ではなかったと思います。それでもレース前には「シオカワに着いていけ」と指示されていました。前年の北信越大会は一年生ながらインターハイまであとわずか、北信越駅伝に至っては区間賞と10秒差の1区4位。最後の最後はきっと火事場の馬鹿力が出てポンと記録が伸びると思われていたんでしょうね。先生からの評価は「勝負強い男」だったのかもしれません。

実際に自分もそれを少し信じていました。でもその評価を疑っていたところもあって、本当に勝てるのか?ついていけるのか?という不安は前日の練習を終えてもぬぐえませんでした。それでも先生の指示は絶対。そして、それを信じるしかなかったので、作戦通りにスタートしました。じんわりと汗がにじむ暑い日だったと思います。

シオカワさんはやっぱり速かったです。スタートしてすぐに先頭に立ったかと思ったら5000mのレースとは思えないラップを刻んでいきます。そしてかろうじて自分もついていきました。必死についていく、その気配をきっと感じたんでしょうね。ハイペースでも決してペースを緩めることはしませんでした。

でも、格が違いました。2周もついていけなかったし、このペースでは無理だと感じた頃には時すでに遅し。自分にとっては完全にオーバーペースでした。そしてそのまま力なくずるずると落ちていきました。

どれだけ順位が落ちたかは覚えていません。ただ、走りながら惨めだったし、早くレースを終えたいという思いばかりが頭をよぎりました。きついとか、苦しいとかそんな感覚ではなく、レースをしているのかすらわからないような状態で、長い5000mが終わった頃にはとっくにシオカワさんはゴール。序盤のハイペースがたたったのか優勝は逃していましたが、しっかり最後まで力でねじ伏せた横綱レースでした。。

惨敗・・・自分にも、シオカワさんにも、他の選手にも。。自分は遅いんだという事実を突きつけられました。

■勝負強いってこと

人生って自分が思う通りに進んではくれませんね。狙って結果が出せるようになるためには、本当に強い力と迷わない意志が必要なんだろうなと思います。

「勝負強い」ということですぐに思い浮かぶのは今なら羽生結弦選手。ずっと怪我で実戦から離れていたにも関わらず平昌オリンピックでは金メダルを取りました。はるかに大きなプレッシャーだったでしょう。というか、自分と比べるのもおこがましすぎますね。スミマセン。

高橋大輔選手が現役復帰しました。伊達公子選手も一度引退したのちに現役引退して活躍しました。体のピークと心のピークはやはり違うのだと思います。そして心のピークが競技成績を決める上で大きなウエイトを占めるとすれば、体力的には有意なはずである若い頃よりも結果を残せるのかもしれません。いろんな人が「いまのマインドで10年前に戻れたらもっとすごい競技結果が残せた」と言います。当たり前ですね。知恵と経験が若い頃と全然ちがいますから。年齢を重ねるということはそういうことなのかもしれません。そして、若い頃に達観していたらみんなすごい選手になっていくんでしょうね。

悔しいインターハイ予選。振り返ってみると、今でも思い出すもんですね。

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