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「痛み」を忘れた都市生活への「拳」:『東京フィスト TOKYO FIST』/映画の中の東京⑥


※注意:文章の性質上、作品のネタバレ等、核心部分を含みます※


 

都市生活の閉塞感

 この映画の冒頭の、汗だくになって保険を売り歩く津田義春(塚本晋也。主演も兼ねている)が歩くオフィス街やマンションの風景は、画面の青白い色味もあって、観る側にかなり無機質かつ息苦しい印象を与える。

 『鉄男』を生み出した塚本晋也監督作品、海獣シアターらしい「金属的」な薄気味悪さであるが、サイバーパンクな『鉄男』とは異なり、オフィス街などのそうした都市生活の風景は、かなり我々の日常と密接な光景である。塚本晋也の切り取り方の上手さもさることながら、我々の都市生活の風景がこうも無機質な空間かと思うと、少々背筋が寒くなる。

 もっとも、かつて義春の友人だった小島拓司(塚本耕司。塚本晋也の実弟)という、不愉快な笑みを浮かべるボクサー(塚本耕司は実際に元ボクサーであった)が現れると、この映画は「背筋が寒くなる」どころか、ねっとりとした嫌な汗が吹き出し、観ている人間の全身に悪寒がサーっとはしる種類の映画ではあるが……。


ボクシングは「尊厳」のスポーツ

 この『東京フィスト TOKYO FIST』はボクシングの映画だ。もちろん(というのも変だが)塚本晋也の作品なので、スポーツの意義や、さわやかさを賞賛する「スポーツ映画」ではない。むしろその対極に位置していると言っていいだろう。

 人間の感じる「痛み」、加えて「痛み」を生産するという意味で「武器」がテーマになることが多い(『バレット・バレエ』:銃、『斬、』:日本刀 など)塚本作品だが、今回の「武器」はタイトルの<FIST>のとおり、ボクシングの「拳」である。人類が所持したなかでも、一番身近な「武器」がこの映画の主題である。

 ボクシングは非常にシンプルな発想からなるスポーツだ。人間が殴りあって、より強い拳で相手を倒した方の勝ちである。紀元前600年代にはすでに手袋を装着した殴り合いが競技として行われ、当時からシャドーボクシングなどのトレーニングも確立されていたという。


 『ロッキー』シリーズは言わずもがな、邦画でも『キッズ・リターン』から『どついたるねん』、『百円の恋』まで、時代や場所を問わず、ボクシングというスポーツは名作映画を生み出してきた。残酷なまでに勝者と敗者をはっきりと線引きする競技の構造が、映像として訴えかける力があるのかもしれない。

 一方でボクシング作品には、他のスポーツ作品には無い、「翳り」や「無情観」のようなものを受けることもしばしばある。マンガの『あしたのジョー』のあまりに有名なラストシーンもそうだが、こちらもその明確に勝者と敗者を線引きしてしまう構造に起因しているように思う。『ミリオンダラー・ベイビー』には、それを端的に表現する台詞が登場する。

 ボクシングは「尊厳」のスポーツである。他人の尊厳を奪い、それを自分のものとする。



 前述のとおり『東京フィスト』は、「拳」を武器として捉えた、ハードコア・バイオレンス映画であり、ほかのボクシング作品、スポーツ作品とはまったく異なる性質を持った映画である。だからといって相撲やプロレスなど、他のスポーツや格闘技で成立する映画かといえば、そうではない。

 「尊厳を奪いあう」ボクシングだからこその、ストレートさやストイシズムが存在し、逃げ道なく真っ直ぐ拳が飛んでくるのが、見ているこちらにも伝わるのである。


金属を埋め込まれた都市生活

 過去の因縁から逃れるために、義春と小島のふたりは、壮絶なまでにボクシングに没頭する。そのふたりの男性に挟まれた、義春の恋人であるちはる(藤井かほり)は、ピアッシングやタトゥーを苦悶の表情を浮かべながら、自らの肉体に痛みをほどこしていく。「痛み」の世界(ボクシング)に入り込んでいくふたりを見て、別の形で「痛み」を別の形で感じようとするのである。

 ちはるの「身体改造」は、本作ではボクシングの「拳」と同じく、人間の体に痛みを与えるという意味で「武器」である。「金属的」な物体の、人体への浸食という意味では『鉄男』ともかなり近い。しかしくりかえしになるが、この作品はSFの世界のものではなく、<東京>が舞台の作品だ。作中のちはるのように激しく悶絶しながら、人体と金属を一体にさせるのは映画的な誇張がややあるが、我々の生活は金属や工業製品に「浸食」されている。

 実際にピアッシングやタトゥーをしている人物は決して珍しくはないし、そこまで直接的でなくとも、我々は都市生活において、金属製の乗り物で職場に毎日通い、スマートフォンやパソコンで意思の疎通をはかっている。その一部は機能不全を起こすと日常がままならなくなるほどに、金属的、人工的な「異物」と分離不可能な暮らしを送っている。

 だが現代人は、そうした「異物」を深く生活に埋め込んでいるにもかかわらず、さしたる「痛み」を感じることなく生活し、それを当たり前だと思ってしまっている部分がある。

 そんな「痛み」に鈍感になった昨今であるが、ボクシングと身体改造は、どちらも太古の昔から存在し、普遍的な「痛み」を想起させる。この映画は「痛み」に鈍感になった都市生活を続ける観客に、熱のこもった一撃をぶちかましてくる。


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