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江分利満氏の静謐なる職業野球論/山口瞳『昭和プロ野球徹底観戦記』



 山口瞳の直木賞受賞作、『江分利満氏の優雅な生活』は文学というジャンルの奥深さを柔らかく指し示す小説であった。「every man(普通の人)」から命名したであろう、著者の分身たる江分利満(えぶり・まん)氏が送る戦後のサラリーマン生活は、家庭も仕事もどこか不完全で欠けている印象であるが、そんな日常も悪くはない。そもそも戦争で死ぬはずだったのに、「普通の人」となったのだから……。敗戦を「僥倖」と表現する山口の小説は、文豪という類の人物の書いた荘厳な作品とは違うかもしれないが、だからといって「小市民」という言葉だけで安く片付けることの出来ない、つつましい美徳がある。


 野球好きとして知られた山口は、『…優雅な生活』の終章『昭和の日本人』にも、昭和10年代の六大学野球のスターティングメンバーをそらんじていく場面がある。スタメンという選手名の羅列に1~9の順番と守備位置を先頭に加えるだけで、野球好きはそこに意味を見出してしまう。そんな実感のこもった野球愛と、当時の大学野球の雰囲気と合わせて感じられる楽しい場面として書かれている。

 この『昭和プロ野球…』は昭和39年(1926)~61年までの間に綴られた、単行本未収録の野球関係のエッセイをまとめた本である。山口は大正15年うまれなので、存命ならもうすぐ100歳ということになる。戦争から終戦、プロ野球が職業野球と呼ばれた”長嶋紀元前”を間近で観てきた世代だろう。

 もちろん昭和の野球エッセイではあるが、インターネットやスマートフォンが無いだけで、「野球ファンの悩みって、あんまり変わってないな」という部分も少なくない。P.101の『巨人軍を叱る』というエッセイでは、球界の<横綱>たる巨人について、「別にファンでもアンチでもないんだけどな……」ということを書いているが、こうしたことは(巨人に限らず)いまだにSNS等でも交わされている印象だ。12球団どこのファンでもない「プロ野球全体の」野球ファンも、山口のみならず常に一定数存在していると思うが、そうした感覚がなかなかピンと来ない人も、いつの時代もいるのだろう。

 

 この本を読んで思うのは、『…優雅な生活』でも感じられた、山口の「我の薄さ」である。広告業界的なスノッブさと旧来の男性的な部分が(後者は時代的に仕方ない部分もあるとは思うが)無くもないのだが、小説と同じく無理やり山場をつくろうとしない文体で野球を描写している。なかでもP.82からはじまる『日本シリーズ現地報告 球場スケッチ』では18ページにわたって64年の日本リシーズを、その落ち着いたなまなざしで南海・阪神両軍を見つめている。

 スポーツを文章にして書き、読ませるという行動は、人間の動きとしては”動”と”静”と、言わば対照的なものだ。そしてそのブランクを埋めようとしてなのか、ときに強引なやり方で読者の感情を煽ろうとするスポーツ関係の文章も数多く存在する。しかしこの1冊はそうした手法と無縁だったように思う。あくまで主役は選手であり、文章を書く人間ではないのだ。

海老沢さんは、故意に、翻訳調の文章で書いている。(…)野球というのはアメリカのスポーツである。相撲とは違う。相撲とか将棋は講談調でやったほうがいい。
海老沢泰久『監督』(文春文庫)P.371:山口瞳「解説に変えて」

 この文章は山口が海老沢泰久の野球小説の巻末に寄せたものである。この文章の前に文壇に野球を<ワカルひと>がいないと嘆いたあとに、端的に文章と野球の関係の考察を分かりやすく書いている。こうした静謐な視点をもった山口こそ、野球も文学も<ワカルひと>だったのではないか。

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