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猪木の粋な息づかい:アントニオ猪木「猪木詩集『馬鹿になれ』」


「そのまんま」の猪木

 弱音を吐いても
 強がっても俺らしく
 俺は俺

 P202『ほんとうの自分』

 昨年10月1日、アントニオ猪木の訃報に接した際、「あの猪木さんでも、最期にはやっぱり天国へ行ってまうんだ」という風に感じた。一度生で目にしたことがあるにも関わらず、どこかマンガのキャラクターのような、我々一般人とは明確に一線を画す存在のように感じていたのだ。あの「猪木」に「死」なんて似合わない。心のどこかでそんな風に思ってしまっていた。


2013.6.22

 私が大学生だった10年前、西武新宿線の久米川駅前に選挙応援に来ていたアントニオ猪木は、「イメージの通りの猪木」だった。モハメド・アリから「ペリカン」と形容されたアゴをはじめ、熱い胸板、誰もがモノマネした独特な語調にいたるまで、「そのまんま」であった。

 この『猪木詩集 「馬鹿になれ」』もイメージの通り「そのまんま」である。神々しさと雄々しさ、それでいて少年のような照れ屋具合と実直さをもった猪木の、等身大とも言うべき血のこもった言葉が紡がれている。



「馬鹿」の定義

馬鹿になれ
とことん馬鹿になれ
恥をかけ
とことん恥をかけ

P26『馬鹿になれ』

 45の詩のモチーフはすべて「猪木」と言っていいだろう。誰かフィクショナルなキャラクターに仮託することなく、己の心を書いた「私小説」ならぬ「私詩」である。猪木の豪快な喜怒哀楽を、豪快なまま詩にしている。

 この豪快さは一般的な詩歌のセオリーでいえば、反するように映るかもしれない。だが、ありとあらゆる無茶をしてきた、この詩集の著者に「ルール」「セオリー」「一般的」などという言葉はあまり意味をなさない。思うがまままに遠慮なく書くから、粋な息づかいを感じられる「猪木の詩」なのであって、美しくまとまった言葉を読みたいのであれば、ほかの誰かの詩集を読むべきだ。

 「馬鹿になれ」という題の詩集だが、あえて「馬鹿」という言葉を定義するなら「誰もやろうとしないことや、それを実行する人」と言えるかもしれない。そしてこの詩集を書いたアントニオ猪木は間違いなく「馬鹿」であり、同時に「馬鹿をやる天才」なのである。



ダイナミズムの旅人

俺の魂が 革命の雄叫びを上げた
幸せ気分でコモエスタ!

   P47『カストロの葉巻(シガー)』 


 この詩集には、猪木が足を踏み落とした世界各国での風景が描かれている。ブラジルはもちろんのこと、ラスベガスやパラオ、北京、北朝鮮の白頭山やキューバでカストロに出会うなど、普通の人間が立ち入れない場所での詩も書かれている。

 猪木の魅力の一つに「世界を股にかける」というイメージもあったように思う、私はサッカーの三浦知良の大ファンでもあるのだが、両者、「自分の競技の地位を底上げする」という意識と、そのためにブラジルを含め、世界各国を駆け巡っていたという印象がある。

 真っ赤なタオルも、「1、2、3、ダーッ!」のポーズも、ともすれば少々キザかもしれない。だが猪木のダイナミズムの前では、些末なことだ。世界を相手にしている男にとって、自分の世界に閉じこもってしまいがちな我々とは、やることなすことが違うのだと、力強すぎる説得力がある。

 ついつい文学という表現は、繊細かつナイーブな表現へと歩みを進めてしまいがちだが、猪木のダイナミズムは「詩」という“異種格闘技戦”でも遺憾なく発揮されている。アントニオ猪木の追悼映画などが上映されているいま、また別の角度から「燃える闘魂」の深淵に近づくことが出来る一冊である。


過去に書いたアントニオ猪木本の記事です


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