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言葉を、カタチを、作法を、新しくデザインしよう

最初はTwitterに書き殴っていたんだけど、なんだか思いが溢れてしまったのもあってnoteに続きを書いてみようと思う。

最初は、毛皮族|江本純子さんの書いたテキストを読み始めたところから始まった。

わかりづらさについて、観劇の消費構造について、劇団の主催者であることと観客であることの間にある矛盾から、自らを「観客ひとり(民藝名)」と名乗るようになるまでについて。

江本さんの言葉はとても情熱的で、真摯で、ファンキーで、麻薬のようで。もっともっと江本さんの言葉を聞いてみたい。

ちなみに以前構想した「擬似的な家族」という作法は、noteに書いてみたもののなんだかやっぱりしっくりこなくて、ちょっと考え直す必要がありそうだ。

先日江本さんにメールを出して、劇団というかたちを考え直した時にHPに「Persons」というページを設けたその作法を私もオマージュさせてもらえないかと相談をしていた。

これまでとこれからの
支えとなっている‘persons’に
感謝と敬意を込めて。

PERSONS|江本純子 JUNKO EMOTO ホームページより

と添えられるそのページには、関わってきた方々がずらっと五十音順に掲載されている。
なんだか思い出の結晶のようでもあり、たくさんの人が江本さんのプロジェクトに関わってきたことがわかるページでもある。

江本さんからの返事には、快諾の旨と、このページを開設するにあたっての経緯や思いが綴られていた。PeopleではなくPersonsであることにも、「個」と「個」がひとまとめにされることなく尊重し合えるのを願っていることが伝わってくる。

「劇団」というわかりやすさから逃れてまで、江本さんが尊重したかったことがここに詰まっているような気がする。


チーム?集団?メンバー?作品?活動?プロジェクト?

「チーム」みたいなものができたけど、似合う名称がない

私の作品のクレジットを考えた時、いつも引っ掛かることがある。展示も制作も発表も上演?も、やっぱり私一人でできることじゃないと改めて思う。

だけどやっぱり「団体」という言葉も似合わない。
私(というか宮森みどり)はもう一人じゃないのに、「個」展と便宜上呼んでいることに、ちょっと居心地が悪くなってきた。

いつもインストールや舞台監督みたいな方面を助けてくれている関根さんも、来年の公演以降企画・制作の方面で手伝ってくれる大野さんも、パフォーマーとして出演してくれる人たちも、なんとなくチームで、だけどやっぱりチームと呼ぶのが似合わない。

だから今回、Directionという個展では目にすることの少ないクレジットを私につけてみた。
うん、ディレクションという言葉はちょっとだけしっくり来る。私は方法論を作って、その実現に関わってくれた人たちを列挙した。そうそう、これくらいがいいなと思った。

だけどやっぱり「団体」として活動した方が予算も見合うし、「団体」としての活動実績があった方が便利な場面が多いしなぁ、なんて思いながら、やっぱり個人用の書類を開いては情報を入力している。

このゆるやかな繋がりに便宜上の名前が必要な時が、もう近いんだと思う。既に私「たち」がやってきたことに、オリジナルの名称が必要なんだと思う。支配的な上下関係も無く、「発表」へ参加する際の温度感もバラバラで、だけどたまたま集うことができただけの関係の名称を発明しなくちゃいけない。

私が「宮森みどり」の活動を続けていくためのライフハックを考えて、発信していかなくちゃいけないなと強く思う今日この頃である。

「作品」みたいなものを作っているけど、似合う名称がない

なんだか酷い話だけど、パフォーマンスを含む作品を応募できるアートコンペは異常に少ない。縛りなし!みたいに銘打っているものでも、連絡したらやっぱりパフォーマンスは断られることもあった。

今年の1月に上演した《Trace a Day vol.01 研修医》というパフォーマンスの上演は、なんとなく演劇ナタリーとかにも出稿してみた。そしたら掲載されて、演劇が好きなお客さんも来てくれたりした。
だけどやっぱり演出が施されたショーじゃないから、フラストレーションの溜まる公演だったと思った人もいたと聞く。

美術からも演劇からも疎外されている感じがした。私のやっていることに似合うジャンルが、似合う分野が、似合う言葉が無いような気がした。だけど面白がってくれる人がいたから、今日までやって来れているんだと思う。

2020年、パフォーマンス・インスタレーションという形式を勝手に言い始めた。大体の美術館がそうであるように、キャプションには制作年とメディア(素材)と作者、ループする作品の場合は時間を記すことが当たり前になっている。でも、これに関しては当てはまるものに丸をつけてそれが記載されるんじゃなくて、自分自身でメディアを名乗ることができるものである場合がこれまでは多かった。

だから私はいつしか、キャプションデータに「パフォーマンス・インスタレーション」と入力するようになった。

見る人は回遊できるから公演ともちょっと違うし、上演だけど演劇というには違い過ぎるし、だから「パフォーマンス・インスタレーション」という形式はとても似合っているなぁと思う。もちろんコンペの応募書類には「パフォーマンス・インスタレーション」というラジオボタンはないんだけど、自分で名乗る分にはこれがいい。

作品というか取り組み?制作は目的じゃなくて手段かも

それから今考えているのは、展示するものを「プロジェクト〇〇のアーカイブ」と呼んでみようかな、という構想である。

例えば絵画作品で例えると、その制作過程は手段なのか目的なのか?ということが頭にちらつく。クライアントワークならきっと目的だし、手段である場合も作家によってまちまちだろう。それを押し並べて「絵画」と呼んでしまうことにも、やっぱり窮屈さがありそうな気がしている。

アーティストを名乗っていると、「作品制作」を目的だと誤解されることがある。だけど私は完成イメージを構想しないまま「取材」もとい、「プロジェクト」をスタートさせていることが多々ある。

「プロジェクト」という言葉は、自然と複数の人たちが介在することを思わせるものだと思う。だから何だかちょっと似合う気がしている。

「個」展|Annaのアーカイブ作業を進めている時、どこで切り分けて作品と呼ぶか?ということをやっぱり悩んでしまった。
展示の体裁を保つために一つ一つにタイトルをつけて、まるで4点の作品と1点の資料展示をしたように見せかけた部分がある。

これは私なりの狡賢さが濃縮されていたとも思う。作品と呼んで、あわよくば販売できたらいいのに。作品と呼んで、憧れでもあった「美術家」を名乗ってみたい。作品と呼んで、1つずつを再展示できるような利便性を担保したい。そんなつまらないことのために、「複数の美術作品の展示」と見せかけてしまいたかったんだと思う。

だけどやっぱりその作法は活動に似合わなくって、だからAnnaという展示と取材を含めて、「プロジェクト」と括ってみた。

うん、やっぱりこれがしっくりくる。展示することまで含めて、ちゃんとプロジェクトと呼べる気がする。今後この作品群を再展示することがあったら、《プロジェクト - Anna のアーカイブ》と記してもいい気がする。それくらい、あの時・あの場所で・あのパフォーマーがいたからできたことだと思っている。それくらい変な形式だったと思う。それくらいのスケール感で取り組んできたことだったとも思う。

言葉を、カタチを、作法をデザインする。だけど…

さっきTwtitterのスペースで一緒に話してくれた人が、「結局誰かのオマージュを生きている」と言っていたのを思い出す。

私は、私と重なる問題意識を持って、とっくに実践してきた毛皮族|江本純子さんに励まされる。「建てない建築家」と名乗った坂口恭平に、変身願望を結実させた森村泰昌に励まされる。そして今、取り組もうとしている「関係や形式に安易な名称を持ち込まない」ことを近くで見守ってくれる人たちに背中を押される。

そして、作っているものを作品と呼ばないことや、集団の定義への悩み、役割と責任から上手に逃げる方法を、自身の取り組みを発信していこうとしている。私の肩書きが「宮森みどり」だけで済む日まで、わかりづらさを釈明し続ける。

大学受験生だった頃、美術予備校で講師が言っていたことを思い出す。「自分の違和感をカタチにする」なんて、ずっと軽薄でどうしようもないテキトーな言葉だと思っていたけど、今になってそこに立ち戻ってしまう私は優等生ですか?

いい子ぶることから逃れようとした先に真っ当なルートが見えてしまうことが、今はまだちょっと素直に喜べません。愚直に生きることが、結局大きな物語に回収されることが癪だから。

今ここに書いている言葉が、素直なものだと信じて投稿する。だけど、明日には、明後日には変わってしまうのだろう。それでも今日の私の言葉はこれが精一杯だ。わかりづらさを貫こうとした先に、簡単でテキトーなそれらしい言葉があることが憎たらしい。だけどそこに立ち戻る自分を半分くらいは好きだと思ってしまう。こんな矛盾も、今は愛おしいと思うことができる。

自分のことが大嫌いだった、近くにいてくれる誰かを上手に信用できなかった、無意味に誰かを憎み続けた私が、まっすぐ立って歩けるようになるための「言葉を、カタチを、作法を、新しくデザイン」していく。


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