教えることで教わる
河合塾美術研究所(美術予備校)に7年ぶりに足を踏み入れた。河合塾美術研究所は、私が大学受験生の頃通っていた予備校で、卒業以降足を踏み入れたことはなかったが、講評の依頼を受け伺った。
予備校で働く友人から外部講評の誘いを受け、恐れ多いと思いつつもいい機会だと思って仕事を受けることにした。
かつて受験生だった頃、とても苦しかったのを覚えている。面倒見よく指導してくれる講師陣を信頼しつつも、講評にはいつも怯えていたような記憶がある。そして、私自身にとっては黒歴史の宝庫でもある。
講評することは、教えることでもあるし教わることでもある
受験生の作品は、荒削りの原石のようなエネルギーがある。一方で、消極性と積極性の采配を決定することに臆病になり、中には消極的に感じる作品もあった。
予備校を卒業して7年間。大学に入ってから私が考え、受けた言葉を思い返しながら、講評を行う。とっても慎重になるし、できるだけ意図や試みに耳を傾けるように会話をする。
作品もそれぞれだが人もそれぞれで、プレゼンの仕方は様々だった。自身の問題意識を語る人、制作の中で考えたことを語る人、参考にした作家を語る人。初めて知る作り手の、初めて見る作品を語るためには、背景・着想・制作・結果を意識する必要があるように思う。私も一人の作り手として、その全ての比重を意識的に決めてきたからかもしれない。
プレゼンと作品を受け感じたことを伝え、参考になりそうな書籍・作家・考え方を挙げ、具体的な手段を探す。講評することはとても創造的な時間だった。
たくさんのことを生徒の方々から教わった。誰かの作品を評することを避けてきた私は、こうも人の作品を客観的な言葉で語れるものかと自身に驚いた。そして責任を持って誰かの作品について語ることには、緊張感と尊敬が常になければいけないと改めて思い直した。
人に教えることは、自分が教わることだ。人のために言葉を紡ぐことは、自分のために言葉を紡ぐことでもある。おおよそ対等とは言えない関係で、そして今回は特別に教える・教わるという関係だった。対等ではない中に築く関係は、とても難しい。関係性に切り込む作品を作る上でも慎重にならなきゃなぁと別レイヤーから学んだ一日だった。
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