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コンピュータはどこへ向かうのか?―アラン・ケイ【百人百問#011】

コンピュータの発明者はいない、とマット・リドレー(#004)は言う。それは一人の人物がコンピュータを発明したと言えず、コンピュータ出現のプロセスに貢献した人が大勢いるからだ。

たとえば、歴史家のウォルター・アイザックソンは、最初のコンピュータと呼べるものを、1945年ごろにペンシルヴェニア大学で運用が始まった「ENIAC(エニアック)」だと結論づけた。ENIACを考案したのは、物理学者のジョン・モークリー、エンジニアのプレスパー・エッカート、兵士のハーマン・ゴールドスタインだった。

しかし、それはまだ2進法ではなかった。一方で、その2年先行して、1943年に「コロッサス」というマシンが2進法のコンピュータとして完成していた。それを開発したのはトミー・フラワーズというエンジニアだったが、彼はアラン・チューリングに相談していた。

チューリングはすでに「ボムズ」という電気機械装置をつくっており、後世にも大きな影響を与えている。そして、何より重要だったのは1937年にチューリングが発表した「計算可能な数について」という数学論文だった。そこには、どんな論理タスクも実行できる万能コンピュータが存在しうることが、初めて論理的に実証されていた。それが今では「チューリングマシン」と呼ばれている。

とはいえ、チューリングのアイデアはとても抽象的で数学的だった。もっと実務的だったのは、クロード・シャノンの修士論文「継電器及び開閉回路の記号的解析」だったという。シャノンは1937年の夏にMITの学生で、「AND」と「OR」が電気回路で実現できることを示した。そこから、「0/1」の2進数によって情報を表す手法を開発し、「ビット」という言葉を初めて使用した。情報理論の父と呼ばれる所以である。

同時に、ジョン・フォン・ノイマンも忘れてはいけない。彼は汎用コンピュータはプログラムをデータとともに記憶装置に保存しておかなければならないことを、初めて提示した。

しかしながら、フォン・ノイマンのアイデアはまた別の人物のアイデアを参考にしていた。それほど、お互いに影響しあい、「コンピュータ」という産物は生まれている。

そこから時を経て、1970年代に、コンピュータは大きな方向転換を起こす。「パーソナル」への道である。それまでは巨大で専門的で大人のものだったコンピュータに対して、新しいビジョンが提示された。その首謀者がアラン・ケイである。

アラン・ケイはパーソナル・コンピュータの父だと言われ、オブジェクト指向を発明し、パーソナル・コンピュータを生み出した。コンピュータを「個人」に手渡した張本人である。

そのアイデアはどこからやってきて、どこへ向かっていったのだろうか?
今日はアラン・ケイが描いたコンピュータの夢を追いかけたい。浜野保樹編著による『アラン・ケイ』を参考文献とする。

話は1968年から始まる。
サンフランシスコで画期的なプレゼンテーションが行われた。3000人の聴衆を前にして、240インチの巨大なスクリーンに、2つの画面が映し出された。一つはダグラス・エンゲルバートという人物で、もう一つはコンピュータのディスプレイだった。

そのとき驚くべきことが起こった。エンゲルバートが手に持っている小さな木箱を机の上で滑らせると、その動きに合わせて、ディスプレイのカーソルが動き出したのだ。さらに、5つの鍵盤のようなキーボードを操作すると、画面にデータが出たり消えたりする。

いまではAppleのキーノートスピーチから日々のZOOM会議まで、当たり前のように行われている、映像を駆使したプレゼンテーションが初めて行われた瞬間だったのだ。

まだ、その頃はパンチカードや紙テープでコンピュータの入出力を行う時代であり、プレゼンテーションをコンピュータが補助するなどということは見たこともない光景だったという。その3000人の聴衆たちは息を呑み、興奮した。その中の一人が28歳のアラン・ケイだった。

ケイはその光景を見て驚嘆しつつも、実は背後に数十人のスタッフが補助していることを見抜いていた。エンゲルバートが一人で操っているように見えて、それはデモンストレーションに過ぎなかったのだ。ここから、ケイの「パーソナル」への道が大きく前進する。

エンゲルバートのアイデアにはたくさんの示唆があった。そこにはすでに、「ハイパーテキスト」の技術も、マウス(先程の木箱)も、マルチウィンドウも開発されていた。

ちなみに、このコンピュータのビジョンをエンゲルバートが抱いたのは、1945年にヴァネヴァー・ブッシュが書いた「As We May Think(考えてみるに)」という論文だった。アラン・ケイも同じ論文を読んでいた。ここにも一人の功績だけを評価できないイノベーションの不思議が隠れている。

そこからアラン・ケイは開発を進める。エンゲルバートの構想をヒントに加え、「子どもでも使える」という方針を打ち立てる。1968年のケイの論文にはすでに現在のデスクトップ・パーソナル・コンピュータの絵が掲げられていた。すでにインターフェイスまで構想していたのだ。

ケイのビジョンは止まらない。次第に、片手で持てて、単独で使える対話型のグラフィック・コンピュータに発展していく。大判のノートの大きさで、大きな処理能力があり、簡単に絵を描くことができ、その絵を動かすことができる。ディスプレイは新聞程度の解像度を持ち、ハイファイ並の音質がある。さらに、価格は500ドル以下を条件とした。加えて、子どもたちが学習に利用することが念頭にあったという。

もはやこれはiPadのことを書いていると思えるような構想力だ。それは「ダイナミック・ペーパー」と言えるようなものだとケイは考え、「ダイナブック」と名付けた(東芝が開発したダイナブックとはもちろん別物である)。

わたしは、ボール紙でダイナブックの外観を示す模型をつくり、どのような機能をもたせるべきかを検討しはじめた。このときにわたしが思いついた比喩のひとつは、15世紀の中葉以降に発展していった、印刷物の読み書き能力(リタラシー)の歴史と、コンピュータの類似(アナロジー)だった。(中略)わたしは、ヴェニスの印刷業者、アルダス・マヌティウスのことを思い浮かべずにはいられなかった。はじめて書物を現在と同じサイズに定めたのは、このマヌティウスだった。

浜野保樹編著『アラン・ケイ』より
「あのころはどんな時代だったのだろうか?」(アラン・ケイ)

アルダス・マヌティウスとは商業印刷の父と言われ、グーテンベルクが生み出した印刷技術を改良し、本のサイズを小さくし、ページ番号を初めて付記した革命者だった。これにより本はポータブルになり、流通力を増大させた。つまり、インターフェイスの革命だった。この本の形態の変化によって、ようやく本が大衆化したと言われている。

このアルダスの革命をインスピレーションに、ケイは「コンピュータ」に「本」の姿を重ねた。だからこその「ブック」という名前をつけたのだ。本はメディアである。だからこそ、ケイは終始「コンピュータはメディアである」と考えた。それは「コンピュータ=道具」だと考えられていた時代に、そこにメディアの未来を、そして本の未来を見ていたのだ。

私のメディアに関する考え方は、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』という難解な著作を、半年間、ほかには何もしないで読み込んだときの経験がベースになっている

ケイはこのビジョンのもと、「アルト」を開発する。これを「暫定的なダイナブック(Interim Dynabook)」と呼び、エンゲルバートが開発したアイコン、ウインドウ、ビットマップ、マウスと、ケイのダイナブック構想を合わせた。さらに、「GUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)」が基調になっており、絵を描くことができた。

プリントアウトしたときと同じイメージで画面を表示する「WYSIWYG(What you see is what you get)」を実現しようとした最初のコンピュータとも言われている。このアルトを見たスティーブ・ジョブズがマッキントッシュに応用したというのは有名な話である。

ケイは常にメディアの歴史の中にコンピュータを位置づける。

メッセージのかたちでメディアに収められた情報を、さまざまな方法で蓄積し、とり出し、操作する”装置”は、何千年もまえから存在していた。
(中略)
紙の上の記号、壁の絵、そして映画やテレビですら、見る側の思いどおりに変化することはない、という意味で、人間とメディアとの関わり方は、有史以来おおむね非対話的で、受動的なものだった。

アラン・ケイによる論文「パーソナル・ダイナミック・メディア」

メディアの歴史を振り返りながら、ケイはコンピュータの夢を語る。

メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアにもなりうる。しかも、この新たな”メタメディア”は能動的なので(問い合わせや実験に応答する)、メッセージは学習者を双方向的な会話に引き込む。

同上

このように、ケイは人間とコンピュータの関係から、かくあるべきというコンピュータのビジョンを提示する。ウォズニアックをはじめとするパイオニアたちは利用できる技術をもとに、いま製作できるパーソナル・コンピュータを開発した。しかし、アラン・ケイは未来の子どもたちがパーソナル・コンピュータを利用している未来から発想している。

この暫定版ダイナブックで実現できなかったのは「ポータブルサイズ」と「防水加工」だと言っている。シャワーを浴びながら考え事をし、コンピュータを操作する未来が見えていたのだ。

メタメディアとしてのコンピュータをケイは論文「パーソナル・ダイナミック」でこう予測する。

三次元モデルシミュレーションがあれば、建築家はそれまでの設計を見なおし、訂正し、それを記憶させ、相互参照できるだろう。

医師は患者の全記録、事務記録、薬物反応システムをはじめ、さまざまなことをファイルに収録し、もち運ぶことができる。

作曲家は、作曲しながら同時にそれを演奏して聴くことができる。これはとりわけ、自分では演奏できない複雑な曲の場合に役立つだろう。

家庭の記録、家計簿、予算、レシピ、備忘録なども簡単に記録、加工できる。

ビジネスマンは、業務のシミュレーションや過去数週間の連絡事項が、相互参照ができるかたちで記録された、携帯可能で能動的なブリーフケースを手にすることになる。

教育者にとって、ダイナブックは、彼ら自身の想像力と才能のみがその限界を規定する新世界となるだろう。

同上

これらはほんの一部らしいのだが、いますでに実現しているものから、これから必要になるものまで、未来像に満ちあふれている。

ケイは1986年にさらなる構想を発表する。
「ヴィヴァリウム」というプロジェクトで、コンピュータの中に人工的な生態系を創り出し、その中に生物を生息させるというものだ。個々の生物は、その設計に応じて環境の中で自由に活動し、繁殖する。

この構想をもとに、さらにまったく新しいユーザーインターフェイスをイメージする。このマシンにはスイッチもキーボードもついていない。ディスプレイ以外には何もない板状のものである。

手の動きを察知し、電源が入り、利用者の手の動きに従ってウィンドウが開き、情報が提示される。文字の移動では文字自体をつまみ、コピーする対象は一本の指で押さえ、後からもう一本を添えると、コピーされる。しかも、メニューという方式を取らず、すべての情報がネットワーク状に連結している。

使いやすいメディアは、ただ操作性を向上するという工夫からは生まれない。本当のメディアは、自分に合ったように修正できなくてはならないし、自分で表現するための道具を作れるようになっていなければならない。

アラン・ケイによる論文「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」

まるでタブレットのようでもあり、VRのようでもある。ケイがイメージしたものはまだ実現していない。彼が20年以上追いかけ続けているものは「表現のメディア」だったのだ。

ケイはコンピュータのことを「道具」だとは考えていない。それは「コミュニケーション・アンプリファイア(増幅器)」かつ「ファンタジー・アンプリファイア」であるという。

ケイの構想は彼の論文に横溢している。その言葉の教養の深さと想像を喚起する比喩表現、ウィットに富んだ語り口は読み手に未来を見せてくれる。

そんなケイが幼少期に出会ったのはディズニーの「ファンタジア」だった。魔法のような世界を夢見て、コンピュータを人々の手の中に収めてくれた。彼こそが本当の魔法使いなのかもしれない。


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