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学校は友達作りに関しキツすぎる独特の環境だった


学校の友達作り強制環境はキツすぎる

学校での友達作りって、今思い出しても無理ゲーすぎると思う。
社会に出てからの人間関係というのは、平素は事務的に仕事をして、その中で成り行きでじっくり日数をかけて関係を構築していけば良いと感じているし、無理に社内の人間と馴れ合う関係でなくて良い。職種とかにもよるだろうけどね。
在宅勤務もしたことあるが、それこそ在宅勤務が中心だったりしたら、会社の人とのウェットな関係に固執する必要は薄い。

でも学校では、新学年になって間もなく遠足とかのイベントがあり、その間までの短期間で義務として、仲良く話せる友達を作らなければならないというのがキツすぎた。
僕が今の人生経験を持ち越したまま学生時代にタイムスリップしたとしても、あの環境の中でうまく友達を作っていける気がしない。

いや本当は友達なんて作れなくて良い。今も独身で友達ゼロで気ままにやれてるし、友達作りを強要される環境じゃなければ友達なんて要らない。
でも学校は、授業でも休憩時間でもあらゆる場所で、常に友達と行動しなきゃ異常者として扱われるのが、地獄すぎた。

多人数のグループに入っていけない

クラスにウン十人の生徒がいる中で、その中から仲良くなり上手くやっていき、自分をイジメたり加害することのなさそうな数人のグループに入っていくということが、どうしてもできなかった。
運良く1人か2人の話せる人を見つけたとしても、彼らはみな人間関係の場を広げていこうとする。4人・5人とグループを組もうとしていく。僕はその5人とかのグループに入って上手くやっていける気がしない。

実際に中学の時は、5人中2人か3人とは上手くやっていけもしたが、1人が物凄く調子に乗って無神経に僕をいじめてきたりした。そうすると、グループの中での今後の人間関係など考えたら、強く反撃をすることもしきれず、苦しい時期を過ごした。

学校というのは、友達グループの中に入らなければならないというのが、事実上の法律のようになっていて、それがあまりにキツすぎた。
それは僕が学校に通っていた25年以上も前の話で、今はある程度事情が変わっているのかもしれないが、今の時代もSNSなどによる人間関係のキツさは相当なものだろう。

一歩間違えばイジメの無限地獄にハマるかもしれない綱渡りの中で、いつも仲良しグループの中で一緒に行動する。昼食は必ずグループで喋りながら食べ、移動教室なども皆で一緒に行く。下手をすれば、学校の外でプライベートでも遊んだり、お泊まりをしたりしなければならない。

そんなことを強いられる生活なんて、今思ってもとても我慢できない。それができなくて、僕は学校でぼっちで過ごしたのだが、それも辛かった。結局いずれを選ぶにしても、相当な精神ストレスの中で過ごさなければならず、学校という環境はキツすぎる。

僕は今の社会人生活では、昼休みはだいたい1人でのんびり食事をとって、その後は外を1人でぶらぶら散歩している。そんなの社会人なら別に珍しくもなんともないだろうし、学校でもそういう過ごし方をどれだけ許容してほしかったことか。
でも学校では、1人で昼食をとる事は異常者の行為だったし、校外に出るには外出許可証なんてものが必要だということで、束縛が多すぎた。

話を弾ませることができない

何より僕には話を弾ませることができない。大人数のグループの中で、コイツつまらんと見限られないレベルで話をしていくことができない。

世間ではよく「聞き手に回れば良い」んだなどと言うが、そう簡単なものじゃない。僕は発達障害なのだろう、皆の楽しい話が基本的に「音」としてしか聞こえない。それが意味を持った会話に聞こえるまでに、結構なタイムラグがある。皆が楽しく騒ぐほどそうなる。
皆の話はそのタイムラグの間にもどんどん進んでいき、僕は付いていけなくなる。そして、聞き手としても、虚ろな表情を浮かべることしかできなくなり、取り残されてしまう。
楽しく話している皆の中で僕は、気遣いばかりで楽しくないのがはっきり表面に出る。そんな中で、数週間くらいならともかく年単位の長期間、友達関係を続けていくことなんて無理ゲーだった。

大学に入っても初日で新歓コンパがあったが、他の皆はその日の短時間で仲良くなる人を見つけて楽しく喋り、夜の飲み会でもノリ良く騒いでいた。あれは僕には一生できない。当然の結果として、僕は大学でもぼっちになった。
無理して将棋サークルに入ったりもしたが、その中の空き時間でサークルのメンバーはテレビゲームをやったりして、その中で感情豊かに大声で騒いだりしていた。そのノリに全く付いていけず、すぐ僕は幽霊部員になった。

なぜ皆はスムーズに人間関係を作れるのか

僕以外の人達はどうして皆、あんなに例外なく、学校で友達を作っていくことができるのだろう。そして大抵の人は彼女を作ったりもしているし、学校の先輩後輩とも人間関係を作っているし、別の学校の人間とすら仲良くなっていたりする。
僕にはとても理解できない世界だ。どうして皆そんなに社交性があるんだろう。

僕はぼっちを選んだ、というかそうするしか無かったのだけど、それはある意味、自分の殻にこもって完結し人間関係の摩擦を避けられた面はある。僕以外の人達は、友達と笑いながら楽しくやっていけているようであって、実際にはグループの中でのギスギスした関係などもあるのだろう。

僕は冒頭でも言ったように、周囲から異常者扱いされ追い詰められることさえなければ、孤独で過ごすことには何の抵抗もない。でも普通の人は孤独への耐性が、僕よりだいぶ弱いだろう。
ビジネスマンは孤独に克たなければならないとか言われたりもするが、その「孤独」な人達も結局は結婚したりしていて、恒久的な孤独にいることは稀だろう。(なお僕は、結婚ができる人間のことを、孤独だなどとは一切認めない)

だから皆、人間関係の摩擦とかあっても、孤独に耐えることの方がどうしてもできないから、妥協や我慢をしてでもグループにいるって人も多いのだろうとは思う。

僕よりずっと友達や恋人をスムーズに作れても、実際にはその人間関係が上手く行かなくて不幸になっている人も大勢いる。だから、僕はそういう摩擦を避け要領よくやれているという面もあるが、それでも、もう少しスムーズに人間関係を築ける社交性は欲しかったなとは思う。

学校の友達作り強制主義は有害だった

僕は学校で友達作りがまるでできないことから、「いくら勉強とかができても、これでは社会に出たら何をやっても上手くやっていけないんだ」という絶望感に浸り続けた。親や周囲からも、「勉強ばかりできたって」といつも言われてきたし、社会で大事なのは人間関係だというのも聞かされてきた。だから、友達を作れない自分は何をやっても駄目なんだと思い、次第に色々なことに対して努力する気も失せてしまった。

そのせいで、自分が持っていた色々な才能を生かせないまま、年ばかり重ねてしまった面が多いと思う。その意味で学校という環境の、友達を作り常に共に行動しなければならないんだという洗脳は、負の側面が多いと思う。
友達ができなくても、例えばパソコンとかのヲタクになって得意なことを伸ばせば、社会で生きていく道は色々とあるんだということを、もっと感じさせて欲しかったものだと思う。


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