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徒然の歴史逍遥

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記事一覧

横浜関内と関西・関東のこと

横浜関内と関西・関東のこと

今日は仕事の用で横浜関内に行った。

駅で電車待ちをしながら気になったのでググってみると、関内はペリー来航後、安政6年(1859年)の日米修好通商条約で指定され関所で囲まれた開港場の区域を「関内」と呼んだのが由来らしい。

ところで関東•関西はどうなのだろうと調べてみればこちらは遥かに古い。

奈良時代672年に壬申の乱が起き、時の天武天皇は翌年に都の警護を強化すべく三つの関所を作った

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南山城 豊岡柿

南山城 豊岡柿

とりわけ柿が好きという訳ではない。
ところが今年は柿が美味いと思う。
しみじみ美味いと思う。
歳を重ねたせいかもしれない。

9月末、奈良興福寺に詣でた帰り阿修羅像の存在感に未だ酔いながら参道の道端で柿を買った。その熟し具合が何とも言えず絶妙で滅法美味かった。

秋も深まって訪れた京都南山城の当尾(とおの)でご当地名産の豊岡柿に出会った。

岩船寺側の露店で母より年上の老婆が点ててくれ

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幻の都  恭仁京

幻の都 恭仁京

三香の原久迩の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば 万葉集 田辺福麻呂歌集

幻の都、恭仁京(くにきょう)跡を訪れた。

故郷伊賀の國からひと山越えた京都府の南端南山城の木津川右岸に位置する山里だ。
今は何もない。ただ見渡す限りの休耕田にコスモス畑がいっぱいに広がっている。

大極殿と七重塔の礎石が残るらしいが恭仁宮の史跡を示す表示板がなければ誰もそれとは気付かない。

千三百

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答志島そぞろ歩き

答志島そぞろ歩き

梅雨晴間の土曜日。昼時も間近だ。
小中の同級生仲間で、鳥羽の港から連絡船に乗り沖合の答志島に渡る。

神主のイタルちゃんの発案に従うままに来たが伊賀上野という盆地山国出身のぼくらは島に渡るというだけでなんだかソワソワしている。

来年近くの賢島で先進国サミットが行われる。
しかし連絡船に乗り込むとそんなことは露知らずといった趣で、鳥羽の街で朝の病院巡りを終えた島の老人たちが互いに病状自慢を

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平等院逍遥

平等院逍遥

~平等院逍遥~

 「平等院、行こにさ!」
 年末の同窓会で誰かがお国言葉でそう誘う。
 小学校の遠足で行った鳳凰堂を40年ぶりにみんなで再訪しようという話になった。

 ひとつき前に取っていたのぞみの指定券も手放し、故郷の同級生に混ざって男女4名づつ8名で京都宇治へ向かった。
 
 宇治駅から歩き出すと間もなく鳳凰堂が町並みの狭間に垣間見え始める。
 歩みを進めると不思議な力に包み込まれ

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妄想日本語人工言語論

韓国語を勉強していた時に強い疑問を持ったことがある。しばらく放置していたが最近ひどく妄想的且つ誘惑の強い仮説が浮かんで来た。

1.日本語と韓国語の類似性に関する疑問

韓国語を少しかじったことのある人にはわかるが、その主語と述語の並びや動詞や形容詞の活用、敬語表現、てにをはの存在・用法を含め文法が日本語と恐ろしいほど酷似している。

単語を並び変えればほぼ完璧に近い翻訳が成り立つ。G

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護摩法要ってなんだ!

護摩法要ってなんだ!

 真夏の頃だと言うのに、29℃の正午過ぎ。
 過ごし易い陽気に誘われ、川崎街道を西に自転車で下る。

 日野の高幡不動尊をぶらり参詣。
 創立は平安初期。成田山新勝寺と並ぶ、関東三大不動尊の一つだと言う。

 境内を参詣し終えた頃、丁度「護摩法要」の始まりを拡声器が告げる。
 こちらサンダル・Tシャツ・短パン姿。
 一瞬躊躇うが、十四世紀建造の不動堂の風格と、お堂のオープンスペースを吹き抜

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伊賀越えでゴザル

伊賀越えでゴザル

 滋賀県甲賀の国、御斎峠(おとぎとうげ)から伊賀上野を望む。
 天正10年、1582年6月。
 堺に滞在中だった徳川家康は、本能寺の変による織田信長の死を知り、服部半蔵らに随行され、伊賀、甲賀の忍者の助けを得て、伊賀越えを果たし、伊勢から三河に無事帰国。
 その伊賀越えの要所のひとつが、ここ御斎峠。
 左手平野が小高い丘に城郭と城下町をなす伊賀上野。奧には青山高原と名張。
 右手は、奈良東大寺二月

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世界の亀山

世界の亀山

 世界の亀山なう。

 亀山は東海道46番目の宿場町だ。
 険しい鈴鹿峠越えを前に、かつて旅人が草鞋をほどき、一息ついた土地である。
 城下町でもあり、今も立派な城跡が残る。

 亀山と言えば、小学生の頃、日本のローソクの80%は亀山で作られるのだと先生に教わった。
 その名もカメヤマと言う会社があって、ホームページによれば、今でも50%のシェアを誇ると言う。

 世界の亀山ブランドを

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雪の南部坂

雪の南部坂

 東京は坂が多い。洒落た名前がつけられているのがなかなか小憎らしくもある。本もたくさん出ているし、研究家もいるらしい。

 さて、今日通りかかった南部坂である。赤坂六丁目から六本木二丁目にかけてアメリカ大使館職員宿舎を横目に北西へ下る。車1台がようやく通れる狭い道だ。江戸時代南部藩の中屋敷がここにあったのが坂の名の由来だと言う。

 有名なのが忠臣蔵「南部坂雪の別れ」の段。討ち入りの朝、大石内蔵助

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市三坂から六本木界隈の往時を偲ぶ

市三坂から六本木界隈の往時を偲ぶ

 昨日坂の話など始めてしまった。ならば毎日往復する市三坂を語らぬ訳にはいかない。六本木交差点から一丁目辺りまで六本木通りを溜池方面へ下る坂だ。

 今の六本木一丁目界隈で明治の名主の名を取った市兵衛町。
かたや六本木交差点の溜池側一帯は江戸時代初期に越前宰相松平三河守の屋敷があった所以で三河台町と呼ばれた。
各々の頭の一字を繋いで市三坂が命名されこの坂が開かれたのは明治20年前後だと言

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伊賀者敵地浸入

 忍者の里、伊賀と甲賀の國は山ひとつ隔てた隣接地だ。
 伊賀と甲賀の対立が忍者ものの映画や小説の中でモチーフとされることが多い。
 しかし実際は、各々が異なる主に仕え代理戦争を交えながら、裏では友好関係を保っていたとも言われる。
 それでも伊賀者に忘れられない記憶がある。
 16世紀は織田信長の伊賀攻め「天正伊賀の乱」(第二次)の際、伊賀と協力関係にあったはずの甲賀の有力者、多羅尾光俊が織田側に寝

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