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二〇十一年三月。未曾有の惨禍をもたらした東日本大震災の記憶は、八年の月日を経て未だ尚私たちの脳裏に鮮烈に、且つ深く重く甦る。 一方で、彼の大震災が、この列島に住まう多くの人々に、他者との心の「絆」や「共感」の大切さを思い出させ、数え切れない新たな行動を踏み出させる契機となったこともまた広く認められた事実だろう。 時を同じくして、米国発のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、フェイスブック(以後FB)が国内で爆発的に普及した。同サービスのユーザ数は二〇一〇年末の三

    • 大和街道ぶらり歩き

      9月11日の昼下がり。 実家から駅までの20分強、旧大和街道を歩いた。 大和街道は亀山の隣り、東海道53次47番目の関宿の西の追分で東海道から分岐し、加太峠から伊賀上野を超え奈良へと続く街道だ。国道に並走するが今は生活路になっている。 都会なら歩く距離だが地方では今は誰も歩いたりはしない。時折すれ違うのは高齢者の運転する軽自動車かおしゃべりに夢中な自転車の若い中国人労働者たちだ。 甍の波を車でやり過ごしても気づかないが、歩いて見ると、表札がなかったり雨戸がピ

      • 真夏の護摩法要 高幡不動尊

        真夏の頃だと言うのに、29℃の正午過ぎ。 過ごし易い陽気に誘われ、川崎街道を西に自転車で下る。 日野の高幡不動尊をぶらり参詣。 創立は平安初期。成田山新勝寺と並ぶ、関東三大不動尊の一つだ。 境内を参詣し終えた頃、丁度「護摩法要」の始まりを拡声器が告げる。 こちらサンダル・Tシャツ・短パン姿。 一瞬躊躇うが、十四世紀建造の不動堂の風格と、お堂のオープンスペースを吹き抜ける涼やかな風に誘われるまま、お堂の中へ。 お堂に座した40名ほどの参詣者の六割強は、意外にも3

        • 答志島そぞろ歩き

          梅雨晴間の土曜日。昼時も間近だ。 小中の同級生仲間で、鳥羽の港から連絡船に乗り沖合の答志島に渡る。 神主のイタルちゃんの発案に従うままに来たが伊賀上野という盆地山国出身のぼくらは島に渡るというだけでなんだかソワソワしている。 来年近くの賢島で先進国サミットが行われる。 しかし連絡船に乗り込むとそんなことは露知らずといった趣で、鳥羽の街で朝の病院巡りを終えた島の老人たちが互いに病状自慢をしあっている。観光客はほとんどいない。 船足は思いのほか速い。 甲板の上に

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        • 通勤列車風景スケッチ
          3本
        • オトーサンの独白
          29本
        • 電機業界のメメントモリ
          8本
        • 徒然の歴史逍遥
          12本
        • 美味いものを愛でる
          15本
        • 六本木素描
          6本

        記事

          梅雨明け間近の夜明け頃

          日曜朝4時の多摩丘陵。 雲雀の囀りが少し離れた低い空で小さく聞こえ始めた。 やがて雲雀は群れをなし、低くなり、近くなり、ピーチクパーチクとスタッカートを効かせながら息もつげないほどに忙しく喧しくなる。 「おはよう、朝だね、今日も頑張ろう」とでも言い合っているのか? 遠く高くの彼方では、烏がカーー、カーーとひと鳴き、ひと鳴き、長く、長く、自らの声で空を楽器に奏でるかのように巣から町へと出かけて行く。 やがて階下では新聞配達の原付の優しいエンジン音、

          梅雨明け間近の夜明け頃

          「青岛またはQingdaoにて」

          中国のかかる広大な大地と悠久の歴史の中で、この青島が世界史の表舞台に初めて登場したのは実に19世紀末である。 日清戦争後の下関条約で日本が清国に遼東半島の割譲を迫ったのに対し、共に清国に対する覇権でしのぎを削ぎながら露わな領土割譲要求は控えていた独仏露の三国は日本の動きに強い危機感を持ち、激しい干渉の結果日本に下関条約から遼東半島割譲を削除させた。歴史に言う三国干渉である。 さても二枚舌の欧州列強の中でドイツはその3年後1898年に言いがかり的に遼東半島対面の山東

          「青岛またはQingdaoにて」

          過渡期を揺蕩う社会の度量

          希代のエッセイスト山口瞳さんを読んでいる。 過日ペンタゴン・ペーパーズを観た時もそうだったが、セクハラもパワハラもワークライフバランスなどという言葉も存在しなかった頃のことをまざまざと思い出さされる。 今は不条理が社会の片隅に追いやられ明るい時代になったと感じ入る一方、逆説的に息苦しい時代にもなったと辟易している向きはたくさんおいでだと思う。 僅か3、40年、建前は大きく変われども人が皆さほど簡単に変われるはずもない。あまりヒステリックにならず時代の過渡期を

          過渡期を揺蕩う社会の度量

          なだれ坂の粋な居酒屋と固定観念のこと

          かつて日本IBMと六本木プリンスがあり、今は地上40階の六本木グランドタワーがそびえ立つその辺り。 当時解体が始まったばかりの旧六本木プリンスの近く、なだれ坂入り口の「粋な居酒屋」竹やん。ここの豚キムチ定食は昼休みのサムスン社員たちを魅了して止まなかった。   ある日の女将との会話。  女将 「アラ、今日はサムスンさんお一人?」  オトーサン 「あ、はい。」(ボクはサムスンさんと言う名前じゃないんだけど) (>_<)  女将 「サムスンさん、小皿のキムチ、オマケでつけ

          なだれ坂の粋な居酒屋と固定観念のこと

          老母の京都花見行きと地下鉄の中国人

          ちょっといい話。 一昨年の4月初旬。 今年はもう87になる母が大阪の女子高時代の同級生とふたりで京都に花見に出かけた。 桜は満喫したがあまりのたくさんの外国人観光客に面食らいながら大混雑の中を5時間ばかり歩き抜け疲れはてた。 京都駅を目指してとりあえず見つけた駅で地下鉄に乗ったが満員だ。 年寄りふたりに席を譲る人もいない。しかもふたり共に久しぶりの京都で知らない地下鉄路線に乗ったらしく京都駅までの行き方がわからない。 ふたりで途方にくれていると中国人と

          老母の京都花見行きと地下鉄の中国人

          若き日の京都人明治天皇と聖蹟桜ケ丘

          「春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鴬の声」 明治天皇(1884年、明治17年)    聖蹟桜ヶ丘に住んではや四半世紀をゆうに過ぎた。  「おしゃれな駅名ですね!」と何度か言われたことがあるが、聖蹟桜ヶ丘は郊外住宅地開発のブランディング的な駅の命名ではないようだ。  駅が関戸駅として開設されたのは1925年(大正14年)。聖蹟桜ヶ丘に改名されたのは、1937年(昭和12年)。  その7年前の昭和5年にできたのが聖蹟記念館だ。京都出身の若き明治天皇が故郷の山水明媚を懐かし

          若き日の京都人明治天皇と聖蹟桜ケ丘

          赤目四十八瀧心中未遂的尼崎追憶

          「赤目四十八瀧心中未遂 車谷長吉」  先日帰省時に行った赤目四十八瀧の写真をFBに上げたところ、Tさんにご紹介頂き本日読了。  意外に重いテーマの一冊だったが、ふとこんな過去の経験を思い起こさせられた。  題名は赤目四十八瀧が入ってはいるが、物語の舞台は阪神尼崎。  阪神尼崎と言うと、関西では「アマ」と呼ばれる少し特別な場所だ。  学生時代、そのアマの中でもかなりディープな地区の病院で、週末、ややブラックな事務当直のアルバイトをしていた。  救急指定病院なの

          赤目四十八瀧心中未遂的尼崎追憶

          春という人生の波止場

          中央線の列車の中。 元気いっぱいスタジャンの袖を肘までたくし上げたかと思うと、今度はバッグから取り出したピカピカのSuicaを目をキラキラさせて見つめる少女がいた。 大学か専門学校の新入生に違いない。 俳聖芭蕉翁は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と奥の細道に書いたが、春という年度末から年度始めの今の季節はさしずめ人生の波止場のようだと思う。 春には旅立ちと別れと出会いと始まりが行きあい、あたかも船出と入港が交錯する波止場のようであり、そ

          春という人生の波止場

          流氷に会いに行った少年

          大学1年の終わった春休み。 ふたり部屋の学生寮でルームメイトだったH君が突然失踪した。 「流氷がみたい。」 それが最後の呟きだった。 富山県の小矢部と言う町の出身で、実に実直な男だった。 グリークラブでテノールをやっていて、喉を守るため、必ずタオルを首に巻いて寝ていた。反面、剽軽なところもあって、心を和ましてくれるルームメイトでもあった。 ご両親が藁をもすがる思いで、手がかりを探しに寮においでになった。 同室だと言うのに、何も答えられなかった。申し訳ない気持ちで

          流氷に会いに行った少年

          ある春の日の世界の亀山素描

          世界の亀山。ある春の日の昼下がり。 ここ亀山駅はジェイアール東海と西日本の境界駅だ。 東海側の名古屋発快速列車が20分ほど遅れて亀山駅ホームに滑り込む。 西日本側の亀山発京都府の加茂行き列車は待ち合わせる素振りさえ見せず発車済みで、次の乗り継ぎは1時間先だと駅員が乾いた声で坦々と告げる。 急ぐ旅でもない。3月も半ばで寒さも和らいでいる。ゆったり待つかと覚悟を決めると改札の先で罵声が響く。 「どないしてくれるっちゅうねん!バスないんかい?用意せぇっちゅ

          ある春の日の世界の亀山素描

          ジャワの農村での激辛原体験

          1983年の夏。 いかにもジャワの少女らしい健康的な褐色の肌とクルクルした丸い目のアニタは涙を流して笑い転げた。 中部ジャワの農村地帯に一泊のホームステイで訪れたぼくに、アニタは悪戯に、 「赤いのは辛いけど青いのは大丈夫よ〜」 と言って青唐辛子を手渡して齧らせた。 あまりの辛さに身をよじらせて悶絶するぼくを見てアニタは笑い転げていたのだ。 ぼくの激辛フードの原体験だ。 今日は陳麻家で半麻婆と半担々麺のセットを頂きながらアニタの笑い顔を

          ジャワの農村での激辛原体験

          東京今昔物語

          数年前のこと。 福岡出張からの帰り、モノレールを降り浜松町でタクシーに乗る。 ワタシ  「六本木の元IBMの隣のビルまでお願いします。」 運転手さん 「えっ、六本木にIBMがあるんですか?知りませんね。」 ワタシ  「六本木のIBMですよ!知らないんですか?ANAホテルの道をはさんで 六本木寄りのIBMですよ!」 運転手さん 「アー、サムスンのビルね!それならそうと最初からそう言って下さいよ。」 この頃からこういうやり取りが増えたので

          東京今昔物語