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東京恋物語 ①意外な乗客

「あの・・・、千鳥ヶ淵の桜を見に行きたいのですが」
東京駅八重洲口近くの路上で手を上げて、タクシーに乗り込んできた女性客は、マスク越しにそう言った。
ベージュのスプリングコートをスマートに着こなす清楚な若奥様・・・といったところか。はっきりと行き先を言わない怪しさはあったものの、妙なクレームを言い出す乗客には見えない。
「いいですよ、了解です。じゃ、ドアを閉めますがいいですか?」
タクシードライバーの小嶋祐太郎は、すでに小一時間ほどを空車で走行していたせいか、近場の目的地を告げられて若干落胆したものの、なんとか気をとり直し、できるだけ明るく対応した。
「はい、お願いします」
そう言いながらシートベルトを締める女性客の上品な仕草と口調に、祐太郎は少し安心感を覚えた。そして、女性客の持つ雰囲気に応じるように、祐太郎は丁寧に車を始動させると、呉服橋の交差点を左折し、永代通りから内堀通りへと車を走らせたのだった。
タクシードライバーとして三年目を迎えた祐太郎であるが、新人の頃は、乗客から指示された目的地がわからず、車載ナビに頼りながら、メリハリのない運転をしていた。そのせいか、急ぎの乗客からはクレームを受けることもあったが、今ではようやく、目的地までのルートを瞬時に頭の中で思い描いて、事前に乗客へ了解をもらいながら運転できるようになっている。ただ、この女性客は、道に詳しくないのだろうか、事前のルート説明が理解できないようで、「お任せしますわ」のひと言だけであった。
やがて車は、竹橋から代官町を通過し、千鳥ヶ淵の信号に向かっていた。車窓から見える半蔵濠一帯には、薄紅色の花を咲かせた桜たちが、水面を覆う勢いで満開の時期を迎えている。
「もうすぐ千鳥ヶ淵の公園沿いですが、どのあたりでお止めしましょうか」
信号手前では、どの車線に車を進めるかで右左折直進が決まる。祐太郎は女性客からの返事を待っていたが、時すでに遅く、咄嗟の判断で半蔵門へと左折するレーンに車を進めた。その先には、半蔵濠の遊歩道へ入る柵の切れ目があったからである。
「すみません、予定を変更して、靖国神社の桜を・・・」
祐太郎は、この女性客の声を聞いて、すぐには反応ができなかった。なぜなら、車はすでに靖国神社方面とは反対の半蔵門へと向かっていたからである。
「えっと、千鳥ヶ淵の桜はもういいんですか?」
祐太郎の問いかけに対して、女性客は突然、意外な言葉を発した。
「ええ。あっ、そうだわ・・・、このタクシー、今日一日貸し切ってもよろしいでしょうか?」
女性客は、何かを思いついたようにそう言った。
「えっ?」
祐太郎は、女性客の申し出があまりに想定外であったため、咄嗟に返す言葉が見つからない。
車内のデジタル時計は、午前十時を示している。突然の貸し切りという言葉に、祐太郎は自分で判断することができず、まずは車を路肩に止め、課金メーターも一時停止した上で、携帯電話から会社へ確認することで女性客に了解をもらった。
こんな突然の出来事に遭遇すると、祐太郎は、ある人物の個人携帯へ電話をすることにしていた。それは、昔から会社の番頭役として経営を支えてきた、相談役の長谷川五郎である。
「五郎さん、実はお客様からの急な要望で、いまから車を貸し切りに変更したいという話なんだけど・・・」
祐太郎は、長谷川とプライベートで話しをする時だけは、下の名前で五郎さんと呼んでいる。
「坊っちゃん、事前予約の貸し切りでない場合はなぁ、そのままメーターを継続して課金すればいいんじゃよ。確か、以前にも説明したはずだがなぁ」
声の大きい長谷川と携帯電話で話す際には、祐太郎はいつも電話を耳から少し離して会話している。そんな長谷川は、祐太郎のことを昔から、坊っちゃんと呼んでいた。
また、祐太郎の祖父が設立したタクシー会社、メトロキャブの創業メンバーである長谷川は、祐太郎が幼い頃から、親族同様に接してきた人物である。そして三年前、都内の有名私立大学を卒業した祐太郎に、タクシードライバーから次期社長への道筋を示し、入社させたもの長谷川であった。現在、父親の小嶋正一郎が二代目社長として経営しているメトロキャブであるが、すでに都内でも準大手の規模にまで成長していた。そして、正一郎は長谷川に、祐太郎の教育係を任せているのだった。
「了解。五郎さん、ありがとうね」
携帯電話を上着のポケットにしまいながら、祐太郎は後部座席を振り向くと、女性客はマスクを外した状態で微笑んでいる。
「貸し切り、できます?」
「あっ、はい」
祐太郎は、そう答えるのが精一杯だった。なぜなら、その女性客はテレビで見ない日がないほどの有名女優、新藤奈々子だったのである。確か、年齢は三十歳を少し超えたくらいだと記憶しているが、見た目は祐太郎と同じ二十五歳ほどに見えた。つい最近まで週刊誌やテレビのワイドショーでは、彼女とIT起業家との交際が破局したと、何度も報道されていた。
「ではまず・・・、や、靖国神社でよろしいでしょうか」
有名人を乗せても、プライベートな会話はしないよう長谷川に教育された祐太郎は、あえて平静を保つように努めた。
「そうね、お願い。あと・・・、真面目そうな運転手さんでよかった」
ウインカーを点滅して、課金メーターを再開させると、祐太郎は車を走行車線に移しながら、通常運転を始めたが、頭の中では奈々子が発した「真面目そうな運転手さん」という言葉の意味を考えていた。
「実はね、千鳥ヶ淵で車を降りたあと、桜を見ながら、歩いて二番町の自宅マンションまで帰るつもりだったの。でも・・・、このあと何も予定入ってないし。そう、今ねぇ、恵比寿の自動車学校へ通ってるのよ。だから、この機会にタクシーの運転手さんのドライバーテクニックを、ゆっくり見てみたいな~って」
「なるほど。そうだったんですね」
祐太郎はようやく、これまでの不可解ともいえる奈々子の会話が理解できたことで、安堵の表情を浮かべたが、急に奈々子の口調がタメ口になったことには、若干の違和感を覚えていた。

千代田区の二番町といえば、東京都内でも有数の高級住宅街である。確かに、今日のような春うららなか天気なら、散歩がてら花見をして帰宅するのも悪くない距離である。
奈々子を乗せた車は、半蔵門を右折して、新宿通りから大妻通りへと入り、あともう少しで靖国神社へ到着するところまで進んでいた。
「うわ~、きれいな桜。この通り、何て言うの?」
「これが靖国通りで、右は九段下と神保町方面、左が市ヶ谷と新宿方面ですよ」
靖国通りにも、その両側に桜が植え込まれており、千鳥ヶ淵と同じく見事に満開を迎えていた。
信号待ちをしながら祐太郎は、当たり前のようになった奈々子のタメ口に、依然と閉口していたが、これから数時間も一緒にいるとなれば、それもまた楽しいかもしれないと思い始めていた。
「へ~、近くに住んでても、通りの名前ってぜ~んぜん知らなかったわ」
「じゃ、この後は、靖国神社のパーキングに?」
そう言いながら祐太郎は、車のハンドルを右に切った。そして、いまの空気感を壊さないよう、少しずつ奈々子への返答を柔らかくしようと決めた。
「ううん、それよりもっと都内の桜の名所を見てみたいわ。今の時期しかできない贅沢よね」
「確かに。では、九段下から飯田橋に抜けて、外堀通り。その後は、目黒川まで行ってみます?」
「さすが、グッドアイデアね」
そう言った奈々子は、うつむきながら、指先で何やら携帯電話を操作し始めていたが、車が赤坂迎賓館を通過したころには、祐太郎の背後から、静かな寝息をたてている音が聞こえてきた。
ちょうど交差点を前にして、左折時の安全確認と同時に、後部座席をちらっと見た祐太郎は、静かに目を閉じて眠る奈々子の姿を、改めて美しいと思った。
「パウォン」
後続車の白いベンツが、急にクラクションを鳴らしてきた。
奈々子の寝顔に見とれていた祐太郎が、無意識に車の左折速度を、極端に遅くしてしまっていたようだ。祐太郎はすかさず、速度を上げて、お詫びのハザードランプを点灯させた。
そのせいか、寝息をたてていた奈々子は、目を覚ましたようである。
「何かあったの?」
奈々子の問いに祐太郎は、左折の速度が遅かったことで、後続車がクラクションを鳴らしてきたことを伝えると、奈々子は、後ろから抜き去ろうとして、隣を並走する白いベンツを見つめた。
「あっ!」
驚いたように声を出した奈々子は、咄嗟に顔を伏せて、座席にもぐりこむように身を隠した。
「どっ、どうかしたんですか?」
急変した奈々子の様子に、祐太郎は驚いてたずねた。それと同時に、並走する白いベンツの様子にも、何か怪しさを感じた。というのも、その車は、祐太郎の運転する車の速度にあわせて、ピッタリと並走を続けているからだ。運転席には、サングラスをした四十才前後の男性の姿が見える。どうやらドライバーの他に、人は乗っていないようだ。
二台の車は、そのまま並走を続けながら、青山一丁目の交差点へと向かっていった。

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https://note.com/miyauchiyasushi/n/ne193e42c7dd5?magazine_key=m79f7c3b592b0


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