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原始の暮らしで癒される

都会から田舎へ来る人は増えている。

移住に限ったことではなく、交流人口やワーケーションという言葉は、誰でも耳にしたことがあるだろう。

釜石に暮らしていて意外だったのは、大企業の社員が、研修のために来るということである。

一体、田舎にきて、何が学べるというのだろうか?

最初はそう思ったが、だんだんとそのメカニズムがわかるようになってきた。

今年の6月から12月にかけて、一般社団法人日本能率協会が主催する、地域での研修プログラム「ことこらぼ@釜石」が行われた。

ことこらぼは、大企業の中堅社員が地方の課題解決に取り組むことによって、地方のことを知り、他企業の社員と共同で取り組むことで、新たな気付きや、能力開発を行うというプログラムだ。

こういったことを「越境学習」という。

人間は会社と家などの限られた空間にいると、刺激や学習機会がなくなって、能力が退化してしまう。

越境学習とは、その限られた空間の外に出ることで、学習機会を得るということだ。

わかりやすところでいえば、海外に行けば、言語が通じないため、その国の言語を学習するだろう。

国内であっても、ところかわれば常識や作法や、方言など言葉も違ったりする。

こうしたことに触れることで、脳が刺激を受け、能力が開発されるということだ。

また他の会社の社員との交流も、越境学習の機会である。

確かに、自分自身、三重県鈴鹿市から、岩手県釜石市への移住をした経験があるわけだが、振り返ってみると、それ以前は、ずいぶん狭い世界に住んでいたと思う。

もちろん、現在もまだまだ狭い世界に住んでいるとは思うが、移住しなかった場合と比べれば、経験から学んだところは、かなり多いはずである。

なるほど、そう考えると、大企業の社員が学ぶところも、あるのかもしれない。

なんとなく、都会の人から学ぶことはあっても、田舎の人が都会の人に教えることはないように思うが、実はそんなことはないのだ。

むしろ、生まれた時から都会に住んでいる人は、田舎にきて、何を見ても新鮮だったりする。

話はそれるが、釜石で東京からの移住者が「焚火を見る会」というグループを作って、定期的に焚火をしているのは意外だった。

焚火が楽しいのはわかるが、それだけが目的の集まりを企画するという考えは、なかなか浮かばない。

僕が子どものころは、家の庭で草を燃やして焚火をしたり、砂浜で友だちと焚火をしたりすることがあったが、彼らにはおそらくそういう経験がないのである。

ことこらぼ@釜石では、僕が取り組んでいる釜石大観音仲見世商店街の再生に取り組むグループ以外に、2つのグループがあった。

この記事では、仲見世のグループについては言及しない。

他の2グループは、橋野地区という、釜石の中でも、特に奥地というかわかりやすくいうと、田舎の中の田舎という地域の活動にかかわった。

一つは三陸駒舎という施設、及び団体で、馬を使ったホースセラピーなどを行っている。

もう一つは地域おこし協力隊が、農業による地域の再生などに取り組んでいる現場である。

いずれも空き家となっていた古民家をDIYで直しながら、遊休農地や土地を利用して、活動している。

そこに取り組んだ、2つのグループのメンバーが陥っていた葛藤が、自分たちの正しいと思っている価値観が、現地の人たちにとっては受け入れがたいものであったということだ。

具体的に言うと、大企業から来た都会の会社員たちは、効率化や、収益化を是とするのに対し、現地の人は心おだやかに生きることを是としている。

むしろ効率化や収益化、言い換えると資本主義が目指す世界観から、離れて暮らしたいと思って、そこに住むようになったという側面があるのだ。

三陸駒舎は、前時代の効率化の道具でもある馬を、現代ではむしろ手間がかかるだけなのに、あえて飼っている。

これはホースセラピーのため、つまり馬に人の心をいやす効果があるということで、そうしているのである。

また、地域おこし協力隊の人(以下便宜上、ニックネームである「ミッシー」と書く)は、肥料を使わない、原始的な農業を行っている。

これは農薬を使わない有機栽培よりも、さらに効率の悪い農業らしい。

有機栽培は少なくとも肥料は使うが、それも使わないミッシーの野菜は、あまり大きくならず、おいしくもないらしい。

そう聞くと、10年以上釜石に住んでいる僕でも、なんだかよく理解できない話なのだ。

してみると、僕もどちらかといえば、資本主義側の人間のようである。

そこに取り組んだことこらぼの研修生は、けっこうカルチャーショックを受けたようで、課題解決どころではないという様子であった。

少なくとも初期の提案は、ことごとく取り下げることになった。
(個人的には初期の提案には、いいものあったと思ったが)

しかし越境学習という観点からは、これ以上のものはないと言えるかもしれない。

ミッシーは都会の出身で、もとは大手の企業に勤めており、営業マンとしてかなり優秀な成績を収めていたそうなのだが、心が病んでしまって、釜石の地域おこし協力隊にやってきた。

そこで、釜石の田舎の中の田舎に住んで、癒されたのか、今は元気そうに暮らしている。

都会の暮らしと田舎の暮らしで大きく違うところは、前述の効率化とも関係があるが、あらゆる意味で分業なのかそうでないかだと思う。

分業について、わかりやすいところでいうと、製造業があるが、一つの製品を作るために、複数の会社が部品を提供している。

これが全部一つの会社でつくるとなると、とほうもない労力がかかり非効率なのだ。

そして、分業が進んだ結果、より複雑な機械を作ることができるようになっている。

作るだけでなく、販売に関しても分業されている。

物流会社があり、卸問屋(商社)があり、小売りの会社がある。

取引や決済に関しても、カード会社や銀行が関係していたりする。

現代では、webでの販売もあって、webデザイナーやプログラマーなどもかかわっているし、同様に物流や金融機関もかかわる。

都会には人がたくさんいるので、分業による効率化がしやすいという側面がある。

人が少なければ、分業をしても効率がよくなくて、成立しない場合がある。

たとえば電車などは、都会では本数も多く、乗車率が高いため、経営がしやすいが、田舎の電車は本数も少なく、乗車率が低くて、運賃も高かったりする上に、廃線の危機に常に立たされている。

また以前の投稿で、都会は行政サービスが充実してるが、田舎は完全ではないため、自治が必要だということを書いた。

これも一つの分業と言える。

効率化の権化ともいえる、大手のチェーン店も田舎には少ない。

大雑把にとらえると、人が少ないと、分業による効率化が難しいということである。

したがって、なんでも自分でしなければならないというところが、多かれ少なかれあるのだ。

これが、分業の仕事しか経験しておらず、都会の効率的な生活に慣れた人にとって、強い刺激となるというのが、僕の仮説である。

人類の歴史を考えると、言語を話す、火をおこす、石器や土器などの道具を作る、集団的な農業を行うというプロセスを経て、進化している。

さらに物々交換が行われ、ある段階でお金が発明され、交換の効率が格段によくなったというプロセスもあっただろう。

つまり、このころから、すでに分業ははじまっているのであるが、現代の世の中では、これが行き過ぎているのではないかと思うことがある。

あまりにも、他の職業のことを知らなすぎるのだ。

スーパーで生鮮食品を並べている人が、果たして農業や畜産、漁業の現場を見たことがあるだろうか。

工場でパーツを作っている人は、それがどこに行って、何に使われているか、正確にはわかっていないだろう。

かくいう僕にしたところで、木造の家を設計しているが、林業の現場にいて、チェーンソーで木を切っているところも、ほとんど見ていないに等しい。

このような細かく分けられた仕事を、やりがいをもってするというのは、なかなか難しいのかもしれない。

本来、仕事というのは生きるため、食べるためにすることであって、お金を得るためにすることではなかった。

現代では、仕事というのはお金を得るための行為であり、お金を得ないことは労働であっても仕事とみなされない。

家事や子育ては仕事ではないし、自分の家の食事のための畑をすることは、仕事ではない(人によって多少認識は違うかもしれないが)。

自治会の会合に参加したり、草取りしたり、祭りに参加したりすることも仕事ではない。

このような線引きの社会に、適応できない人は、意外に多いようなのである。

そういう人は、農作物を育てたり、山菜を取ったり、動物や魚をつかまえて、それを調理して食べたりすることに満足感を覚えることがあるのだ。

あえて焚火で調理したり、昔の釜でご飯を炊いたりする体験も、喜ばれる。

考えてみると、YouTubeで流行っている、サバイバル動画なども、そのような内容が多い。

つまり原始への回帰願望のようなものがあるのではないか。

人間というのは一部の人をのぞき、長期的で、大規模な計画をリアルにとらえられないものである。

その中にいて、自分が何をしているかよくわからないと、成果の実感や、成功体験にとぼしい。

もっと小規模で、短いスパンで、目に見える範囲ですべてが完結する暮らしに、生きることを実感する人もいるのではないだろうか。

田舎へ移住したり、ワーケーションに来たりする人が増えてきているのは、そういう側面があるからではないかと思う。

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