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ひとりと、カフェで泣き唸る男と、ハダカ野口


(「ひとりと、」シリーズ概要は以下投稿の前書きにて)


週末よく行く馴染みの喫茶店は、午後になるといつも満席で店の前に列ができるほどだった。だからいつもは午前中に足を運ぶのだけれど、その日は朝までお酒を飲んでいたので、十四時過ぎに向かったら案の定店の前に列ができていた。並んでまでその店に行くほどの魅力は確かにあって、だから並ぶことも考えたけれど、その日は花粉が無駄に頑張っていてその気力もなく、客席が多く確実に入れそうな店を適当に選んだ。

店に入るたびすぐに案内されたふたり掛けのテーブル席に座ると、その隣の、野口英世がハダカでテーブルに置かれた席に、ひとりの若い男が座っていた。私から見て斜め右前に座るその男越しにホールの店員が立つ定位置があって、だから嫌でもその男の表情が目に入った。その男はわかりやすくいうと泣いていて、正確にいうと唸っていた。

「ヴー、ンー」

押し殺そうとしても、どうしたって声となって外に出てしまう。そんな余裕のなさがその声に顕著に表れていて、店内に流れる、顔も忘れたJPOPアーティストの歌声が少しばかり滑稽に思えるほど、その男の唸りは何か心に訴えかけてくるものがあった。

ハダカ野口が少し寒そうに震えているように見えて、すぐに私自身が寒いのだということに気づく。まだ三月だというのに外は快晴だからか、店内は暖房が切られて窓が開けられていた。風がそこそこあって冷たいし、ましてや花粉から逃れるために適当に店に入ったというのに、これでは何も意味がない。そんなモヤモヤを知る由もない店員におすすめされたブレンドを仕方なく注文し、鞄から本を取り出す。けれどなぜか本を開く気分にはなれず、とりあえず初対面で朝まで一緒に飲んで解散際に連絡先を交換した少年のようなおじさんに、奢ってくれたお礼と社交辞令ではない「またお願いします」を送った。

その間にも聞こえていた男の唸り声がだんだんと小さくなり、荒い息遣いと鼻をすする音に変わる瞬間があって、おそらく私の隣に座っていたであろうハダカ野口の元持ち主は、まだ外に出て時間は経っていないのかもしれないと思った。

まもなくテーブルに置かれたブレンドを口にして本を開いてはみたものの、いまいち内容が入ってこない。あらすじだけで面白いに決まっているはずのその本を、買ってはいたものの仕事が忙しくてなかなか読めず、ようやく読めると楽しみにしていたのに同じ行を何度も読み直してしまう始末。

若い集団の笑い声や赤ちゃんの泣き声、おじいさんが荒々しく新聞をめくる音、空いたグラスの氷がぶつかり合う音、オーダーを繰り返す店員の甲高い声。どれも今までの私にとっては心地よいBGMだったのに、そこに男の荒い息遣いと鼻をすする音、無音のハダカ野口の存在感が加わるだけでこうも雑念が入って来るものかと驚いた。

鼻をすする音がしばらく続き、ふと気になり隣の席を見ると、そこにはくしゃくしゃに丸められたティッシュ数枚とカラのポケットティッシュの袋しかなく、男の袖がわかりやすく濡れていた。男が鼻をかむ音は聞こえなかったので、恐らく私が来る前に使い果たしていたのだろう。この店には備え付けの紙類はなく、きっと店員を呼ぶ気力もトイレに立つ気力もなく、その男はずっと袖で涙と鼻水と格闘していたのだ。そこで花粉用にポケットティッシュを二袋持っていることに何故か罪悪感を覚えた私は、意を決してその男に声をかける。

「あの、良かったらこれ使ってください」
「あ、いや、大丈夫です」
「僕もうひとつ持ってるんで」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。気にしないでください」

なにを大丈夫なことがあるのだろうと不思議に思ったし、気にしないでは無理なお願いだとも思った。だけど本人がそういうのなら仕方がない。それ以上は絡むことはせず、私はまた本を読む素振りを始めた。

それから一分もしない間に、その男の席から着信音が鳴りはじめる。すると男は息を整えるための息遣いに切り替え、五コールくらいでその電話に出た。

「もっしー」

先ほどまで泣いていたとは思えないほどの明るい声で電話に出る男を思わず私は二度見した。一瞬違う人かと思ったけれど、電話に出ているのは間違いなくその男だった。

「今?先輩と飯食ってちょうど解散するとこ。あー、いいよ。もう近くいんの?わかった。はいはい、ほいじゃ」

私はすぐ本に視線を戻し、そこから目を離さないよう意識を集中させると、今度は男の方から声をかけられた。

「すみません、やっぱりティッシュ貰って良いですか」
「あ、もちろんです。どうぞ」
「ありがとうございます。急に明るく話し出したの、驚きましたよね」
「え、」
「笑っちゃうくらいわかりやすく二度見されたんで」
「ああ、すみません。正直違う人かと思いました」
「へへ。いいんです。連絡きた奴に今はまだ泣いていたことバレたくなくて。心配しすぎちゃうやつなんで、整理ついてから話そうと。」
「そうなんですね」
「でもやっぱ目赤いですかね」
「赤いですね。でもほら、今日は花粉が頑張ってくれてるんで」
「確かに。まさか花粉に感謝する日が来るとは」
「なんか、俺も今日くらいは大目に見てやろうと思います、花粉」
「へへ。ティッシュありがとうございます」

そう言ってその男は丁寧に頭を下げ、涙を拭いて鼻をかんだあと席を立った。薄手のジャケットを羽織り濡れた袖が隠されたことで、花粉で目が赤いだけの男として違和感はなく思えた。テーブルに置かれたハダカ野口を手にし、少し考える素振りを見せて財布にしまい、別の野口を取り出す。新顔のハダカ野口からその男の顔に視線を戻すと目が合い、「へへ」と笑った。

「なんとなくです。なんとなく」
「俺ハダカ、いや、千円札置いていった人見てないですよ。多分入れ違いだったので」
「あ、そうでしたか。全然周り見れてなかった。じゃあこの状況なんなん?って感じですよね。気使わせてすみません」
「いえ全然。何があったかわからないのでティッシュでしかお力になれませんが」
「むしろ超ありがたいっす。何があったかは、ご想像にお任せします」

それじゃ。そう言ってその男は急ぎ足でレジに向かい、店をあとにした。

ようやく本に集中できる。そう思ったのに、気付いたらハダカ野口を財布に閉まった男を想像してしまう。唸るほどのことがあったはずなのに、あの電話が来た数秒で整理するのを後回しにして明るい声を絞り出す。袖を濡らすほどのことがあったはずなのに、電話相手に心配させまいと自分を取り繕う。なかなかできないことだと思った。

異様に唸るほどの悲しい出来事、ハダカ野口を置いていった人と男の関係、ハダカ野口を財布で温める男の心境。どんなことがあったのかご想像にお任せされたけれど、そんなこといくら考えても正解を知ることはないし、勝手に想像するのは無粋かもと思い留まり、せめて整理がついたらその電話相手や他の友人に相談できるといいなと他人任せなことを思った。結局そのあともこの店では本に集中できず、男が出た十分後くらいに私も店を出た。

並んででも馴染みの喫茶店で今度こそ本を読もうと思い、その店の前まで行くと予想通り列ができていて、そしてその列の中に先ほどの男の姿があった。鼻を全力でかむその男に笑いかける別の男を確認し、花粉サンキュー。と人生で初めて組み合わせた言葉を心の中で唱えて、バレないよう反対方向に歩いた。その日はもう、本を開くことはなかった。

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