文字を持たなかった昭和 二百六十九(手作りの乾物―ぐいぐいみっ) 

 昭和中期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)を中心に庶民の暮らしぶりを書いている。冬場に作る保存食品としての乾物として、干し菜に続き「ぐいぐいみっ」について。

 「ぐいぐいみっ」はミヨ子や姑のハル(祖母)など地域の人びと――主に女性――がそう呼んでいたもので、「ぐいぐいっ」のように「」の部分が高く強い。標準語的に言えば「ぐるぐる剥き」だろうか。かんぴょうはユウガオの実を輪切りにし、外側から薄く剥いて紐状にしてから干したものだが、あれの桜島大根版と言えばいいだろう。

 桜島大根の鹿児島での通称は「島でこん(島大根)」。世界でいちばん大きな大根と言われており、外見は巨大なカブのように丸い。ふつうに育てても直径20数センチに、大きいものは直径30センチにもなる。重さは10キロほど、大きく育つと20~30キロになるものもある。

 その桜島大根を厚さ2センチくらいの輪切りにして、皮を剥いたあと、実の部分を3、4ミリ厚さに薄く剥いていくのだ。円盤状の桜島大根をぐるぐる回しながら剥いていくので「ぐいぐいみっ(ぐるぐる剥き)」と呼ばれるようになったのかもしれない。

 「ぐいぐいみっ」の作業の中心は女性だ。もともとは冬場の夜なべ仕事のようなものだったのだろう。家で穫れた桜島大根の中から、保存用に相当量を選ぶ。大きな平たい「しょけ」*に10数個もの桜島大根がごろごろ置かれ、ハルが順次輪切りにしたものを、ミヨ子が薄く剥いていく。二三四(わたし)も、包丁が使えるようになった小学生の頃から手伝った。輪切りになっているとは言え桜島大根の実はそれなりに重く、また冷たくもあった。ハルは輪切り作業が終わると剥く作業に加わった。

 たくさんの桜島大根の輪切りを延々と紐状に剥いていく作業は単調なようだが、気を抜くと「紐」が途中で切れて乾燥や保存がしづらくなるので、おしゃべりしながらも手元に集中しなければならなかった。ラジオはともかく、テレビを見ながら、というわけにはいかなかった。そもそも明治生まれのハルには、作業をしながらラジオを聴く習慣もなかった。もっとも、集中して美しい白い「紐」ができそれがザルの上でしなう姿は、達成感をくすぐった。

 長い長い紐状に剥いたら、竹竿に懸け陰干しにして水分を抜く。数日すると水分が抜けた分黄色味を帯び、まさにかんぴょうのようになるのだった。乾いて端のほうが縮れてきたら、1本ずつ紐のように束ねて保存する。干し菜と同じように、新聞紙にくるんで大きな茶缶に入れておくのだった。

 生活に樹脂製品が普及してからは新聞紙ではなくビニール袋に入れるようになった。お菓子や海苔の缶に入っている乾燥剤とともにビニールに保存すれば、茶缶にしまわなくてもすんだ。お茶を自家製しなくなり茶缶を使わなくなるのと、ハルが老いて保存食品などをだんだん作らなくなったのとどちらが先だっただろう。あるいは、家族が減って来て、多種多様な野菜を植えなくなったせいかもしれない。それでも、桜島大根を植えた年はやはり「ぐいぐいみっ」を作り、ミヨ子はビニール袋に「昭和〇年」とマジックペンで書いて保存していた。

 冒頭でかんぴょうに例えたが、二三四は進学で鹿児島を出るまでかんぴょうを知らなかった。かんぴょうが身近になるのは、大学卒業後東京で就職してからだ。ほぼ「音」としてしか知らなかったかんぴょうを、のり巻きの具として見て食べた時の新鮮さ、そしてかんぴょうそのものの作り方を知ったたときの驚きは忘れられない。どちらも「ぐいぐいみっ」そっくりだったから。

*鹿児島弁。竹で編んだザル。
《参考》鹿児島県>かごしまの伝統野菜「桜島大根」


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