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散り行く花見客を見送る桜に、あの日の祖母を想う

昨春花見に行ったのは、3月31日。4月を待たずに、ほろりほろりと放れていく白が、しんしんと降る牡丹雪のようだった。年々早くなっていく桜を憂いていたが、今年は久方ぶりに遅めの開花。入学式の背景にはやっぱり桜が咲いていて欲しいと思うのは人間の勝手か。

この時期、道々にポツポツと現れる桜にも目が行く。いつもの景色でさえ、花が咲いて初めてそこに桜があることを知る。木の存在に気づいていたとしても、花が咲いて初めてそれが桜であったと知る。一度知りさえすれば、花を咲かせていない冬の姿でもそこに在ると分かるが、存在もそれが何であるかも、そのものらしさが見えないとなかなか気づくことが難しい。

私の見ている景色の中に、花を咲かせることのできない桜はいるのだろうかとふと考える。空想癖のある私はいつの間にか桜を人に置き換え「そこに生きているみんなが尊厳のある存在として認められるには、それぞれが自分らしい花を咲かせることのできる環境があるってことが大事だよな」などと思いを巡らす。

4月8日の今日は午後から雨予報。結構降るらしい。美しい桜を拝めるのも今が最後と慌てて花見に行った。桜の名所である近所の公園は、私のような滑り込み客で平日にもかかわらず賑わっていた。満開だった土日は、さぞかし混雑したに違いない。

今日は散りはじめ。爛漫のときを過ぎ、儚さをまとった今日のような桜颪さくらおろしの景色が個人的には好きだ。この「あはれ」を、最近の若者は「エモい」というのか。雨模様に花見客の足取りは心なしか早く、花屑の道を惜しげに帰る人たちにお花見ムードもにわかにしぼんでいく。「また来年」そう思いながら桜を背にする人たち。それを静かに見送るようにたたずむ桜に、昔見た祖母の姿が重なった。

子どもの頃、お盆に近所の祖父母の家に行った。県外に出ている叔父たちが久しぶりに帰省していて、いつもは祖父母だけの静かな家がとても賑やかだった。定番のきつね寿司と甘めの卵焼き。息子たちの帰りを喜び、張り切って作ったであろう祖母の料理が並んだ食卓を囲む。明るく優しい叔父たちに、集まった子どもたちみんなが存分に遊んでもらい、笑顔の絶えない本当に楽しい一日だった。

夕方になり、叔父たちが帰るのをみんなで見送った。「バイバーイ」子どもたちの無邪気な声に笑顔で応え、叔父たちは家の前の細道を車で行く。その車が先の丁字路を左に曲がってしまうまで、みんなでずっと手を振った。車が見えなくなったのを確かめ、各々家の中に戻っていく。

私は、車が行った方向を見つめたまま一人佇んでいる祖母のことが気になり、後ろから様子を窺っていた。寂しげな祖母の背中。子ども心に声をかけてはいけない気がして、ただその後ろ姿をじっと見ていることしかできなかった。

やがて祖母は、前を向いたまま一度だけ両手でぎゅっと目を擦り上げる素振りをし、気を取り直したように振り返った。いつも気の強い祖母の目が濡れ、ツンとした鼻は赤く染まり、必死に縛った口元は小刻みに震えていた。私に気づいて慌てて表情を繕う祖母から目を逸らし、私は見ていないふりをして家の中へ駆け入った。

一年に一度桜の下に集う人々。賑やかで幸せな束の間の時間。散りゆく桜を人が惜しむのと同じく、桜もまたあの日の祖母のように、散り行く人たちを名残惜しんでいるのかも知れない。また来年もどうか会えますようにと願いながら。

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