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世界遺産「富岡製糸場」と登録目指す廃線ウォーク

私、子供の頃、2年間、群馬県の高崎市に住んでいたことがあるんです。

高崎白衣大観音のすぐ近くでした。

幼稚園の年長と小学校1年生だったので、家の近所のことしか覚えていないのですが、白い観音様の美しい姿はよく覚えています。

高さ41.8mもあるんですね~。

AC写真より引用

群馬と言えば草津温泉!
日本三名泉のひとつですね。

今日は、日本が誇る群馬県の世界遺産「富岡製糸場」と、さらに世界遺産が増えるかもしれないお話です。


ここ数年で、何度か軽井沢旅行に行き、先週は、軽井沢の観光スポットについての記事を投稿しました。

そのひとつが、長野県と群馬県の県境に建つ「熊野皇大神社」。
秒で県またぎが可能なんです!

つまり!
長野県の軽井沢は群馬県のすぐおとなりさん。

軽井沢に行く道中に訪れたのが世界遺産「富岡製糸場」。

軽井沢から足を伸ばして行ったのが世界遺産登録を目指す「碓氷第三橋梁(めがね橋)」。

いずれも群馬県の2つのスポットです。

群馬県の方からすると、軽井沢ベース、東京からの移動ベースにしてしまって申し訳ないのですが、私自身が、大阪⇔東京⇔軽井沢旅行の機会に訪れたもので、お許しを。

⭐日本近代産業発祥の地


「富岡製糸場」には3度も訪れました。

絶対に、解説員によるガイドツアーがオススメ!
1,200円(見学料1,000円、ガイドツアー200円)

新紙幣の発行開始を今年7月に控えた今こそ、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一氏が「富岡製糸場」と深い関わりがあったこと、「富岡製糸場」が日本経済の発展に大きな影響を及ぼしたことなどを学びたいところです。

🔶「私、蚕(かいこ)さん、飼ってたんだよね」「はぁ!?」

まず、日本の養蚕業(ようさんぎょう)について。

以前、一緒に「富岡製糸場」に行った友人の一人は、「生糸」がどうやって作られているのか初めて知った、と言っていました。

昆虫のカイコが成虫の蛾になるために作る繭(まゆ)1個から約1500mの糸が取れ、これを数本まとめたものが生糸です。

実は私、群馬県に住んでいた子供の頃、カイコさんを飼ってたんです。

カイコと言えば、白いイモムシ。
「飼う?何故!?はぁ?」
みんな、このリアクション。

でも当時、群馬県高崎市では珍しい話じゃなくて、友達もみんな飼ってたんですよね~。

家の裏には桑の木が自生していて、採って来た桑の葉をパリパリ食べるカイコさんはとても可愛かったんです。

カイコさんも群れになると気持ち悪いと思うので、富岡市観光HPから、1匹の可愛い写真を選びましたのでご安心を。

右2枚は「しるくるとみおか」HPから引用

改めて学ぶと、カイコが成虫なるまでの期間は約4週間。
短っ!
こ~んな可愛いイラストもありました。

しるくるとみおか」HPから引用

あまり覚えてないけど、繭になったあと、蛾になると旅立って行くのを見送ってたのかな~?

ついでの話。
私、小学生の頃、広島に住んでたんです。
自然が沢山残るところで、毎日外を走り回っていました。

取って来たのがカマキリの卵。
木の枝にくっ付いているふわふわの卵。
子どもの私にとって面白かったのでしょう。
私はこれを勉強机のペン入れに差していました。

ある日、学校から帰ると、私の部屋で、母が床を這いつくばってる!?
なんと、そのカマキリの卵がふ化して、ミニミニカマキリが床にいっぱい!

「お母さん、ごめんなさ~い!」

🔶渋沢栄一、技術革新と技術交流が大量生産を実現

かつて手作業で生産出来る生糸の量は限られていて、高級品でした。

こちらは展示されていたパネルで、江戸時代に発明された上州座繰り器を使い、家庭単位で作っていたそう。

後に、富岡製紙場で実現した大量生産技術こそ、かつては一部の特権階級の人しか手に出来なかった絹を世界中の人々に広めることにつながったのです。

実はこの頃、ヨーロッパではカイコが繭を作れなくなる病気が蔓延し、生糸が取れなくなり、良質な生糸を探していたところ、日本の質の高い生糸に注目。

横浜に拓かれた絹市場では、高値で売れるようになると共に、品質の悪い生糸も出回って信用が落ち、生糸の価格は下落。

そこで、信用回復のためにも、洋式器械製糸技術を導入して生糸の品質を向上させることが、国力を付けたい明治政府の緊急課題に!

そこで、明治政府はフランスから技師を呼び、洋式の繰糸器械を備えた官営模範工場の建設を決定。

この時、明治政府の大蔵省租税正(そぜいのかみ)であった渋沢栄一氏が、農家出身で養蚕に詳しかったことから富岡製糸場設置主任に任命され、生糸は日本が外貨を取得するための主力輸出品目となったのです!

品質の高い生糸は「トミオカシルク」と呼ばれ、当時は世界の貿易量の80%を占めていたとか!

この時代、アジア諸国はヨーロッパの国々の植民地となっていました。
「極東」と呼ばれた日本。
西洋列強国に肩を並べる産業革命が日本が植民地となることを防いだ、とも言われています。

さらに、世界遺産登録されたのは「富岡製糸場と絹産業遺産群」。

「絹産業遺産群」が差すものとは、カイコを病気から守る風通しの良い建物を設計した田島弥平の「田島弥平旧宅」や「高山社跡」のこと。

さらには、冷風を利用してカイコの卵を貯蔵し、生産数を飛躍的に増加させた「荒船風穴」も世界遺産登録されたのです。

⭐世界遺産「富岡製糸場」ガイドツアー

訪れたのはいずれも平日。
空いてます。
心配になるくらい、空いてます。

明治5年、日本初の官営模範工場として設立。
1987年(昭和62年)まで115年間、稼働していました。

おおお!
「明治五年」のキーストーンがあります!

ちなみにこの煉瓦の積み方は、レンガの向きを長い面と短い面に交互に並べた「フランス積み」。

はいはい、フランス積み、聞いたことありますよ~。
というのは、以前に、明治41年に建造された「旧奈良監獄」の見学会に行った際に、積み方には、イギリス式、フランス式、ドイツ式があると学んだんです。

「旧奈良監獄」で採用されたのは、イギリス式。
短い煉瓦を並べる段、長い煉瓦を並べる段を交互に重ねることで、より強度を高める積み方。

話を「富岡製糸場」に戻しましょう!

🔶明治五年のまま現存「東置繭所」

東繭倉庫(東置繭所)、西繭倉庫(西置繭所)、繰糸場の三棟がコの字型に配されていて、この三棟が2014年の12月、国宝に指定されています。

まずは「東置繭所」
入って正面、先程「明治五年」の表示があった、横に長~い建物。

木で骨組みを作り煉瓦で壁を積み上げて造る「木骨煉瓦造」という建築方法で建てられたこの「東置繭所」は、当時のまま現存。

観音開きの鉄の窓がいっぱい!

繭倉庫にこのように窓がたくさんつけられているのは、風通しをよくするためだったそう。

西欧風の構造ながらも、屋根は日本瓦で葺くなど、日本と西洋の技術を見事に融合させた建物なんだそう。

確かに瓦でした!
そして避雷針もオシャレ。
「東置繭所」の半分は展示室とシルク製品を置く売店になっていました。

🔶長さ140mに並ぶ300の繰糸器が圧巻!「繰糸場」

そして、一番の見どころはやはり「繰糸場」でしょう!
この入り口から想像出来ない光景が中に!

奥までずらーっと並ぶ機械の様子は圧巻の光景!

長さ約140mの巨大な工場には、繰糸器300釜が設置されています。

ガラス窓がいっぱい!
当時まだ電灯がなく、自然光を多く取り込めるよう、フランスからガラスを取り寄せて作ったそうです。

ここに並んでいるのは、昭和40年~55年の間に設置された日産製の自動繰糸器で、昭和62(1987年)3月の操業停止時の状態で保存されています。

近くで見るとまたド迫力~!

頭上には、茹でた繭を運ぶレールなどがあり自動化されていますね。

展示室には明治の官営時代のフランス式繰糸器の写真が。

上述した江戸時代の手作業の時代から、フランス式繰糸器になって各段と生産力がアップしたことが見て取れます。

そしてこちらが「西置繭所」
実は、今年1月に行った時は工事中でこの辺りまでは行けず。
2023年当時の様子です。
やっぱり長~い建物で、窓が多い!

中は繭倉庫だった当時の様子が再現されていました。
2階から見えたでっかいタンクは、雨水を貯めて利用するためだったとか。

🔶フランス人は、生き血を飲む!?

首長館「ブリュナ館」(左)は、当時の首長ポール・ブリュナのために明治6年に建てられた住居。
敷地内には、診療所も。

ガイドさんから聞いた興味深い話があります。

製糸場の開業当初、工女を募集するも、とんと人が集まらない。
なんとそれは、こんなデマが、まことしやかに流れていたから。

製糸場に入ると「外国人に生き血を取られる」

実は、フランス人技師達が好んで飲んだ赤ワインを、若い娘の「生き血」を飲んでいる、思い込んでいたようで。

そこで、初代場長に就任した尾高惇忠がくだした決断は?

当時14歳の娘さんを、伝習工女第1号として入れたんだとか!
これにより、「外国人に生き血を取られる」などの噂が払拭され、女工さんがどんどん集まるようになったんだそう。

「写真を撮ると魂を吸い取られる」とか、「マクドナルドのお肉はネコの肉だ」とか、いつの時代もこうしたデマ情報があるもんなんですね。

「女工館」はフランス人女性技師4名のために建てられたもの。
大正時代には、従業員の食堂としても利用されていました。

ガイドさんが見せてくださったのが富岡製糸場建設当時の写真。
すご~い!
ちょんまげ姿の大工さんの姿が!

さらに驚いたのがこれ。
左上、まるで空撮したかのような写真です。
実は、この上空からの写真を撮るために、竹足場の櫓(右)を作ったというのです!
すごっ!

こうして「富岡製糸場」が日本近代産業発祥の地となった経緯を知り、世界に誇る世界遺産であることを学びました。

敷地内にある樹木が「繭(まゆ)」に見えるのは気のせい?

⭐群馬県の郷土料理「おっきりこみ」


旅の楽しみの一つはやはりご当地グルメ。

富岡製糸場から徒歩1分。
群馬県の郷土料理「おっきりこみ」が頂ける「いちの家」さんに再び行って来ました。

「おっきりこみ」とは、幅広のうどんを、各家庭にある野菜やきのこなどとともに煮込む麺料理のこと。

「いちの家」さんのご主人は、なんと御年90歳!
本も出版しておられるそう。
そしてお箸袋には、ひとつひとつ、自筆の文字が!

ご主人が何時間もかけて出汁を取ったおっきりこみ、美味しかったです~!

【名物おっきりこみセット】
▪️おっきりこみ鍋
▪️生野菜
▪️そぼろ丼
▪️香の物

そして、2022年3月、富岡製糸場の目の前にオープンしたお店が
「甘味処鎌倉 富岡製糸場前店」。

食べたいな~、でもね~と思っていたら、先に入った友人が買っててくれました~!
ありがとう!

⭐鉄道施設群の世界遺産登録を!「碓氷第三橋梁(めがね橋)」


軽井沢から車で約30分。

今年1月は雪の影響もあり、行けなかったけど、昨年、訪れた時に、その迫力に圧倒されたのが、群馬県安中市の鉄道遺産、
「碓氷(うすい)第三橋梁」(通称めがね橋)。

廃線になったJR信越線横川(群馬県安中市)-軽井沢(長野県軽井沢町)間に残る碓氷峠の鉄道施設群です。

富岡製糸場の世界遺産登録の際、「生糸などの輸送に貢献した」として構成資産登録を目指すも、養蚕製糸が中心の枠組みに輸送手段を入れるのは困難、と判断されたそうなんです。

そこで、2024年1月、庁内に研究会を設置して検討会議を開き、鉄道施設群としての登録を目指すべく、調査研究を進めているんだとか!

🔶絶景の鉄道遺産で廃線ウォーク

日本最大のレンガ造りの橋。
おおお!

1893年(明治26年)に開業した横川-軽井沢間は、距離11・2キロに対して高低差553メートルという険しい地形。

当時の国鉄で最も急こう配だった場所で、元々は馬車鉄道として開通。

明治半ば、その碓氷の山を越えるために、ドイツのアプト式鉄道を採用して運行を開始。

アプト式とは、ラックホイールと呼ばれる歯車型の車輪と「ラックレール」という歯車型のレールを噛み合わせて運転する仕組み。

1968年(昭和38年)、新幹線の開通でこのアプト式の鉄道は廃止され、104年間の歴史に幕を閉じたそうです。

近付くと、さらにど迫力!

美しいレンガ作りのアーチ橋の横にある階段を上がっていくと、【アプトの道】の第六号トンネル!

中は通り抜け出来るようでした。

第2橋梁から第6橋梁までが残っていて、山道を走る道中にもいくつか見ることが出来ました。

世界遺産登録が叶うといいですね!

⭐「鬼押出し園」で感じる自然のエネルギー


群馬県高崎市に住んでいた時、1973年(昭和48年)、浅間山が噴火しました。

噴火で飛んできた小石がバラバラと屋根に当たってすごい音がしていたのを覚えています。

翌日、その石を拾い集めて暫くビンに入れていたのですが、広島に引っ越す時に捨てたんだったかな?

群馬県で訪れたことがある観光スポットが吾妻郡嬬恋村の「鬼押出し園」。

「かつて、火口の中で鬼が暴れ、岩を押し出すことで噴火が起きた」

と考えられたことから「鬼押出し園」と名付けられたんだとか。

随分前で写真は残っていないので、フリー素材から。

絶対にスニーカーで行きましょう!
とにかく足元がゴツゴツです。

AC写真から引用

遊歩道に沿って歩いていくと、溶岩の荒々しい姿から、自然のエネルギーを感じる~!

園内中央には噴火の犠牲となった霊を弔う「浅間山観音堂」があり、夏になると、溶岩の間から可憐な高山植物が顔を出すそうです。

こちらも軽井沢から車で約30分。

また群馬旅行に行く時には、数十年ぶりに高崎白衣大観音の姿を拝み、草津温泉を楽しみたいものです。

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