現代語訳『伽婢子』 焼亡定まる限り有り(2)

 奇妙なことだと思いつつも、急いで家に帰った久内《ひさうち》は家財などを持ち運んで別の場所に移した。不審に思った人々が子細を尋ねても理由を話そうとしなかったため、強引に問いただして聞き出したが、その非現実的な内容に皆は声を上げて嘲笑《ちょうしょう》した。
「あいつは何を言っているのか。狐にでもたぶらかされてあり得ない話を吹き込まれたのだろう。慌てふためいて家具を取り外し、資財や調度品を運び出して、家の建て直し料を無駄遣いするつもりか」

 当時、西の京(右京)と東の京(左京)の人々は酒麹《さけこうじ》の売買で座を設けていたが、その年の三月頃、座が破られた旨の訴えが公方《くぼう》に寄せられた。時の管領《かんれい》・畠山《はたけやま》入道徳本《とくほん》(畠山持国《もちくに》)は、弁論の場を開いて互いの訴えを聞いた後に、東の京に理《り》があり、西の京に法度《はっと》に背いた咎《とが》があると判断を下した。
 西の京で酒麹を売る人々は裁定結果に反発し、ならず者たちを大勢集めて北野天神に立て籠《こ》もった。管領は何とかしてなだめようとしたが、先方は話を聞き入れようとせず、何が何でも東の酒麹商人たちを討ち果たすと言って引かない。管領は侍所《さむらいどころ》の京極持清《もちきよ》に命じて武士を差し向け、絡め取って牢獄に入れようとしたため、立て籠もった者たちは捕らえられてなるものかと抵抗した。
 文安《ぶんあん》元年四月十二日、ついに籠城側は社に火を放って自害したが、折しも怪しげな強風が吹き、社頭《しゃとう》・僧坊・宝塔・回廊が一瞬で灰燼《かいじん》と化し、さらに飛び火が民家に燃え移り、西の京はことごとく焼け野原となってしまった。
(了)

 神の使いから京の大火災を知らされた主人公は、話を信じて難から逃れることができました。
 ここに書かれている騒動は史実を元にしていて、文安元年(1444年)に北野天満宮は全焼しています。室町幕府の権威が失墜する「応仁の乱」が勃発したのは応仁元年(1467年)ですので、その前夜の空気が行間から感じられると思います。

 今回で「焼亡《じょうもう》定まる限り有り」は終わりです。短いエピソードでしたが、お付き合いありがとうございました。
 次回から新エピソードをお届けします。それではまた。


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