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現代語訳『さいき』(その12)

 ある日のこと、女は清水寺で一人の僧と知り合った。鎌倉からやって来た行脚僧《あんぎゃそう》で、これからさらに西へと向かい、豊前国《ぶぜんのくに》にも立ち寄る予定らしい。すがる思いで佐伯荘《さいきのしょう》に書簡を届けてもらえないか頼んだところ快諾してくれたため、すぐに屋敷に戻って筆を走らせた。

 手紙を受け取った僧は女に尋ねた。
「愚僧《ぐそう》は遊行《ゆぎょう》の身ですので、この消息《しょうそく》を先様《さきさま》にお届けしますが、ご返信まではお約束しかねます。それでもよろしいでしょうか」
「はい、相手に文《ふみ》が届きさえすれば十分です」
 どういった事情なのかは分からないものの、さめざめと涙を流す女を不憫《ふびん》に思った僧は急いで西へと向かった。

(続く)

 今回から『さいき』の後半となります。前半(~その11)までは、女と出会ったことで領地問題が解決してめでたしめでたし――となった佐伯と、いいように利用された末に捨てられた女の姿が語られましたが、間もなく物語が大きく動き始めます。
 そのキーアイテムが、佐伯宛ての手紙です。


 以下、やや長めの余談/雑談になります。

 今回の僧は原文で「鎌倉へ下りける僧」(鎌倉に下る途中の僧)となっています。京都から見て鎌倉と大分は方向が完全に逆でつじつまが合わないため、「鎌倉からやって来た」と設定を変更しました。

 根拠のない推察ですが、――元の原文は「鎌倉より下りける僧」で、後に「鎌倉から京都への移動が『下る』ではおかしい」と思った別の人が「鎌倉へ下りける」に修正したことで生じた齟齬のような気がしています。

 もしこの仮説が正しく、単なる誤字ではないと仮定すると、「鎌倉より下りける」と書かれた初期バージョンの『さいき』(散失)は、「京都よりも鎌倉の方が格が上」と考える人がいた鎌倉時代に記されたかもしれません。その際は、豊前国の訴訟を博多の鎮西探題ではなく、京都の六波羅探題で処理したことになるので、鎮西探題が設置される契機となった元寇よりも前(鎌倉中期以前)の設定である可能性があります。

 あるいは、作者が室町時代の鎌倉公方(関東管領)側に強い思い入れのある人物だったケースも考えられます。こちらの場合は、佐伯の訴訟が長引いていたというエピソードで、暗に幕府を批判したと読み取れます。

 ただ、いずれにしても手元の資料やウェブでは「鎌倉から京都に向かって下る」という表現が見つけられませんでしたので、少なくとも一般的ではなかったようです。

 それでは次回にまたお会いしましょう。


【 主な参考文献 】


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