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【小説】奔波の先に~井上馨と伊藤博文~#161

27 鹿鳴館 (7)

 鹿鳴館も建物としての問題が色々あり、それを一つ一つ乗り越えて、形となりつつあった。そんな馨の前にまた一つ問題が持ち上がった。
「この馬鹿ぁ。なぜ、これが駄目なのか、わしに理解るように説明しろ」
「それは、我が国において、このような前例がありませんので」
「おぬし、公使館の経験は?」
「ありますが、公使館付きの留学生でして」
「そげなもんと、話してわかるものじゃないの。実際に反対しているのは誰じゃ。それに直に来るようにというんじゃな」
 失礼しますと言って青い顔色になっていた、事務官が下がっていった。

 それと入れ替わるように、外務大輔吉田清成が入ってきた。
「井上さん、ずいぶんお怒りでしたな」
「これじゃ。たった一行に、ずいぶん反対があるんじゃ。わかってはおったが、わしも引き下がるわけにはいかんのでな」
「招待状の主催者欄ですね」
 広げられた、招待状の差出人には「外務卿 井上馨」の隣に「外務卿夫人 井上武子」と書かれていた。
「外務省の中でも。武子の名を外すべきと言ってきておる。他ではなおさらであろう。しかし、ホステスなしで、何ができる。何のための夫婦同伴じゃ。招待客に対しても、令夫人の名は必要じゃとずっと申しておるんじゃ」
「外務省の内でも反対者がおるとは由々しき事態ですな。イギリス公使時代、私も妻には助けられました。イギリスは女王陛下の国でもありますし。外交官夫人というのは、国のお役目を背負っておることを、他の人々にも理解させるべきでありますな」
「そう、この社交の場は、外交の場であることを、理解させにゃならんということかの」
「ダンスにも目的があるということですね」
 その後、反対する者たちを説き伏せ、夫婦連名の招待状を認めさせることができた。

 事前の準備として、馨は武子や末子を教師として、自宅を使用させ、ダンスやマナーを、出席対象の婦人たちに教える会などを行っていた。すでに帰国していた、女子留学生達、大山捨松、永井繁子、津田梅子にも協力をさせていた。
 様々な準備が続けられるなか、明治16年11月28日鹿鳴館の開館式を迎えることになった。その夜会の招待状には外務卿井上馨、夫人井上武子が連名で記載され、招待客も夫人同伴とされていた。
 蓋を開けてみると、洋装で出席した女性はそれほど多くなく、実際にダンスの相手としても外交官夫人として滞在経験のある鍋島栄子、柳原初子、吉田貞子といった人たちが、加わってくる程度だった。着物姿の女性も多く、もっと古風な袿と袴を身にまとった宮中の正装袿袴姿も目立っていた。紳士枠で招待していた大隈重信夫人綾子もこの袿袴姿だった。また、男性にしてもダンスのできる人物は限られていて、夫妻で踊ることはマナーに反することを考えると、壁の花が目立つ状態だった。

「武さん、お末には、頑張ってもらわんといけんようじゃ」
 招待客への挨拶が一通り終わると、そう言ってダンスフロアーに送り出した。言い出した手前、馨もダンスをしていた。疲れて、場を離れると博文がやってきた。
「お疲れ様じゃの」
「俊輔も踊ってくれんか。あちらの社交界にも顔を出したのじゃろ」
「僕は勉学に言ったんじゃ。ましてや一家で行って、社交も目的だった聞多とは違う」
「そうかの」
 がっかり気味の馨を見て、博文は笑った。
「嘘じゃ。少しは踊れる。そのうち加わるさ」
 やはり疲れてきた武子が、馨のもとにやってきた。
「馨さん、綾子さんと話をしてきてもよろしいですか」
「あぁ、久しぶりじゃろ。行ってきてええよ。武さんはホステスなんじゃ。皆にも笑顔をよろしくの」
 馨の言葉を聞いて、武子は笑顔を振りまきながら、綾子と話をしにいった。
「武さんも、大変じゃ。聞多は注文が多すぎる」
 そういいながら、ふっと気がついたようだった。
「武さんの指に光っとったの。あれが…」
「俊輔、よう気がついたの。パリで買わされたダイアモンドじゃ。よう似合とるじゃろ」
 これには二人で顔を見合わせて、笑っていた。そうしていると、馨に近づいてくる男がいた。
「聞多さん、おめでたいことじゃ」
 そう言うと、抱きついてきた。馨はすぐに引き離すと声をかけた。
「中井、もう酔っとるんか」
「俊輔、鹿鳴館の功労者の一人じゃ。中井には名付け親になってもらったんじゃ」
「そうか、中井さんがか。良い名をありがたいことじゃ」
 博文は、笑顔をみせていたが、目は笑っていなかった。もうひとり、遠くからそれを見て、少し嫌そうな顔をしていたのが、武子だった。

「綾ちゃん、お越しいただきありがとう。大隈様も」
 武子は満面の笑みを浮かべていた。
「吾輩はついでか。しかたない」
「馨さんが、ご挨拶してくるように、おっしゃられたのですよ」
「馨がか。あそこで、中井に絡まれているぞ」
「まぁ、本当ですね」
「綾ちゃんまで、気にしたら負けだと思っているのに」
 武子は扇子を持ち、顔を隠してしかめていた。その指にキラリと光るものを見た。
「武ちゃん、その指の輝くものって」
「これがパリで馨さんに買っていただいた、ダイヤモンドの指輪」
「あっ中井と馨で行ったぞ。伊藤ん苦か顔は面白かね」
「大隈様、悪趣味でございます」
 ほとんど武子は怒っていた。
「そうです。あちらが気になるのは、仕方ないことですが」
 さすがに綾子も呆れ気味だった。
「このドレスだって、ダンスだって、みんな…」
「武ちゃん、しっかりなさいな。ここにいる女性のあこがれで、中心になる存在だって忘れては」
「ありがとう。綾ちゃん。馨さんの存在とか立場を考えないとね」
「大隈様、馨さんに伝えることでもあれば」
「そがんもん、あるわけなかろう。今や敵であるけんな」
「殿方というものは、面倒ですね。私たちはそんな事気にせずにね」
「そうです。綾ちゃんと私はずっとね」
「馨が戻ってきたようだ。そろそろお開きか」
「それでは、また」
 そう言って、武子は馨のもとに戻っていった。それに気がついた末子も隣に来ていた。何も気が付かなかったように振る舞わなくては、と笑みを絶やさないようにしていた。

 馨は終了の挨拶をして、帰っていく客を見送った。武子もその隣に立ち、一緒に見送っていた。その帰る客の中にはもう中井はいなかった。片付けの始まった鹿鳴館を後にした、馨と武子は無口だった。その不思議な空気を感じた末子も黙っていた。着替えて、寝所に入るまで、武子は不機嫌を隠そうとしなかった。
「武さん、お疲れ様じゃった」
「馨さん、中井さんとお二人で何を」
「そげなことを。見とったのか。なにもないのだがの」
「それなら良いのです」
 そう言って、武子は馨の頬に手を当てて、抱き寄せていた。
「武さん、疲れておるのでは」
「疲れているからです。疲れているからこそ…」
 馨は女主人という立場に、武子をおいたことの埋め合わせになるのかと、疑問も持ちながら、武子を抱いた。
「お望みのままに」
 武子の耳元に囁いていた。

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