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バーフバリ 王の凱旋 完全版 について考える

バーフバリ 王の凱旋 完全版(以下、バーフバリ2と略称) を観た。凄い映画体験だった。
バーフバリ2 が如何に凄い映画か すでに多くのことが語られて来た。そしてそれは常に王の中の王、偉大なるアマレンドラ・バーフバリ(以下、バーフバリと略称)を称える言葉とともにあった。太陽を温めることが出来ないように、これ以上言葉を重ねても王の威光を称えることにはならないだろう。
そこで私は、バーフバリ2 の神話としての側面:世の摂理や成り立ちについて比喩的に語る物語としての側面 について振り返ってみることにした。
王を称えよ!マヒシュマティに栄えあれ!

結論は、
その圧倒的映画体験(バーフバリの勇姿)と物語構造(死すべき定めのバーフバリ)のギャップが、結果に執着せず、成すべきことを為せ という規範を体現する。
というものだ。

以下、詳しく見ていこう。

まず、私が バーフバリ2 を観終わって抱いた感想は以下のようなものであった。

王を、バーフバリを讃えよ。

バーフバリにぞっこん参ってしまったわけだ。

その全てが名シーンと言ってもいいくらい、印象に残る場面の連続。
シークエンスの一つ一つが、バーフバリがまさしくシヴァの化身であり、王の中の王であられることを物語る。
真の王には重苦しく深刻なところがない。まったく快活でときにユーモラスでさえある。
(バラーラデーヴァの常に張り詰めて余裕のないこととは対照的に!)

映画体験はバーフバリそのもので、誠に晴れやかなものだった。
映画を観終わって、重苦るしく沈痛な気分など皆無であった。

だが、物語全体を改めて見直してみると、これは バーフバリはなぜ死ななければならなかったか?という問いに対する物語であることに気づく。

バーフバリは、背後から最も信頼していた部下であるところのカッタッパに剣で刺され死んだ。
その最期はまさに非業の死と呼んで良い有様であった。
にも関わらず、この映画の印象がこんなに晴れやかなのは一体どうしたことだろう。

バーフバリはなぜ死ななければならなかったのか。
彼の王の英雄的行為、我々観客を惹きつけたその行為の1つ1つが、一歩一歩、死刑執行への13階段のように、彼の王を死に近づけたのだ。

悪魔払いの火の儀式では、荒れ狂う像をなだめ、無事儀式を終わらせた。
この出来事は結果として、バーラーラデーヴァとビッジャデーヴァ父子の怒りと羨望をかき立てた。


身をやつして滞在したクンタラ王国では、押し寄せる賊徒ピンタラの大群に対して、怯懦な王族を鼓舞して戦士とし、自らは一騎当千、鬼神の如き働きを見せた。
しかし、盗賊の群れを退け、デーヴァセーナ姫に想いを告げたことは、結果として国母シヴァガミの意図に反していた。

マシュマティ王国では、デーヴァセーナとの あなたの尊厳を守る という誓いと、シヴァガミの 何者の妨げに対しても正義を貫け という教えに従い、シヴァガミの意に反して、デヴァセーナとの結婚を求めた。結果、国王即位が取り止めとなり国母との仲が疎遠となった。

戴冠式の日。彼のカリスマは国軍最高司令官として兵卒を完璧に統率するに止まらず、民衆を熱狂させずには置かなかった。だが、国王バララーデーヴァが霞むほどの圧倒的支持を受けたことは、結果としてバララーデーヴァの敵愾心を煽ることとなった。

デーヴァセーナの裁判では、彼は怒りに燃えていた。バーフバリは法廷において何よりも先ずバーフバリであった。
体を触られそうになったのでセートパティの指を切り落とした 
と証言する妻に対し、
お前が悪い…。切り落とすべきは指ではなく首だった。
その場で賊を斬首するその苛烈さは、反逆罪で国外追放という結果を招いた。

民草の中にあっても、バーフバリはバーフバリであった。民衆に慕われ知恵を授けた。この様子を見たバララーデーヴァは危機感を募らせた。バララーデーヴァに暗殺の口実を与えたのは、クマラの、彼の激励で戦士となったあのクマラの勇み足だった。

危険を顧みずカッタッパの救出に向かい、自分を置いていけ と繰り返し嘆願するカッタッパの戒めを解き背中をあずけた時、彼は死への階段の最後の段に足を掛けていたのだ。

バーフバリは最後までバーフバリだった。だがその数々の偉業は結果として自らに死をもたらし、民衆に希われながらも結局は王になれなかった。結果から遡って考えるに、バーフバリの人生は無意味であり、運命に翻弄された人間と評価することが出来そうにも思える。

だが、私の映画体験は逆だ。王とはバーフバリのことであり、バーフバリ2 はバーフバリを称える映画であったと、私の気持ちは強く訴える。

この矛盾をどう考えたらいいのだろうか。

補助線として 悪魔払いの火の儀式(以下、火の儀式と略称) について考えてみよう。

劇中で 火の儀式 は3度行われていると考える。

一度目は、冒頭シヴァガミによるもの。
二度目は、バーフバリの死。
三度目は、終幕のバラーラデーヴァ。

(バーフバリの死 を 火の儀式 とみなすことについての補足:燃え盛る炎の中で、バーフバリは片膝立ちで、膝に剣を突き刺した姿勢で息を引き取る。この姿勢が、バラーラデーヴァの最期と瓜二つであることに注意。)

ヒンドゥーにおいて、火の儀式 には、欲望を浄化する意味が込められているという。
どのような欲望か。

劇中で 火の儀式 は、
大きな戦いが終わった後に行われ、
その後、新たに王となる人物が選出されている。

一度目:カラケーヤとの戦争の後、バーフバリが王に選出される。(だが、その選出は、蛮族の長をバーフバリが追い詰め、バラーラデーヴァが止めを刺す というなんとも微妙な結末に基づいていた)

二度目:バラーラデーヴァとバーフバリの確執に決着がつき、バーフバリの息子マヘンドラが新国王に選出される。(バーフバリの死によって、シヴァガミはバラーラデーヴァの策謀を知る)

三度目:マヘンドラがバラーラデーヴァに勝利する。マヘンドラがマヒシュマティ国王に即位する(大円団?後述)。

争いによる緊張の緩和と新体制を受け入れる区切り(=感情の浄化)を 火の儀式 は表象している。

こうしてみると、バーフバリ2 は、戦いで傷ついた感情をどう清算するのか、システムの正統性をどのように調達するか を巡る物語であったとも解釈できる。

実際のところ、火の儀式 自体には、人の感情を浄化する機能などありはしない。
冒頭でシヴァガミによる一度目の儀式はもちろんのこと、二度目(バーフバリの死)を以ってしても、バラーラデーヴァの遺恨は消えず、三度目でバラーラデーヴァもろとも遺恨は消えたかに見えるが、ラストシーンで黄金のバラーラデーヴァ像の頭部が滝の下の世界に落ちていくシーンが挿入される。これは物語の発端(マヘンドラが滝の下に落ちたこと)の再現であり、因果が再生産されたことを暗示している。しかもご丁寧に、マヘンドラの後を彼の息子が継ぐとは限らないと仄めかされている。ことほど左様に、人の感情の連鎖を解くことは簡単ではない。

そうした中で、バーフバリだけが自由である。

彼はついぞ、復讐だとか、自身の栄達だとか個人的な願望のために行動することはなかった。ときに人の法をも超越した正義に従って行動した(セートゥパティの斬首)。どのような境遇にあっても自らの不運を嘆くことがなかった。必要とあらば死の危険さえ恐れずに行動した(カッタッパの救出)。ただ為すべきことを成すために。

バーフバリの英雄性は、重力を無視したかのような跳躍だとか、時空制御しているかのように敵が勝手に矢に当たっていくとか、そんなところにあるわけではない。むしろこれらの描写は、因果に縛られることのない軽やかさ・自分の運命と意思するところの完全なる一致 の比喩的描写と解釈すべきであろう。

そうしたバーフバリのあり方が、観るものを魅了し、力づけ、彼が王であることを望ませるのだ。
物語の主題である、感情の浄化とシステムの正統性は、バーフバリが負うている。

個人の運命を、システムへの貢献という観点から評価したとき、個人が最終的にどうなったか、は問題ではない。問題は彼がどう在ったか、だ。

システムの内部に在りながら、システムの存続の正統性を調達してくる特異な存在。それを 王 と呼ぶのならば、王 とはある役職についたものを指すのではない。その者の在り方を指す言葉であろう。

バーフバリ2 のキャッチコピーには、王を称えよ の他に、 願えば叶う というものがある。
これは、大変に皮肉の効いた、裏返しのキャッチコピーであるといえよう。

真のキャッチコピーはこうだろう。
願いが叶うかどうかは問題ではない。ただやるべきことを為せ!

バーフバリ2 は、因果に縛られ、不安定なシステムに依拠せざるを得ない人の生に在って、結果に執着することなく、ただ成すべき事を為すことに集中せよ というヒンドゥーの規範を バーフバリ という勇者の在り方を以って提示する。

バーフバリ2 は、頭で理解すべき映画ではない。これは、体験すべき映画だ。

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