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寝ても覚めても 映画と小説の違いを考える

映画 寝ても覚めても(濱口竜介 監督) を観た。最初はよく分からない映画だと思ったが、妙に心に残った。しばらく考えて、もしかして、これはすごい映画なのでは と思い、もう一回見た。今は、寝ても覚めても は、2010年代を代表する日本映画の傑作なんじゃないかと思っている。

映画 寝ても覚めても に関しては、すでに
https://note.mu/geniusorangutan/n/ncec922f75840
で素晴らしい批評が書かれている。
ここでは、小説版(映画版の原作) 寝ても覚めても(柴崎友香 作) との比較を通じて、映画 寝ても覚めても の魅力に迫ってみたい。

結論は
主観ー見るー変貌
をモチーフに据える 小説版に対して
客観ー二項対立ー成長
をモチーフとする 映画版は、 他者性 という主題をよりくっきりと描き出しており、それは、震災以降を生きる私たちにとっての希望である。
というものだ。

濱口竜介はインタビューで、原作へのリスペクトを繰り返し語っている。にも関わらず、映画版と小説版では、筋書き、人物関係その他の部分で違いが多くある。そこに、映画と小説のメディアの特性の違い、滝口監督の作家性を読み解くヒントがあると思われる。

映画と小説のメディアとしての特性の違いとは何か。
映画は映像と音を使える。使わざるを得ない。
小説は映像と音は使えないが文字情報は事実上無限に使える。 失われた時を求めて のように、一瞬の描写のために、一万字を費やすことも可能だ。逆に映画は、映画上の時間と、観客の時間がある程度一致している必要があるので、使える文字情報(つまりセリフの文字数)は限られる。この違いは、映画に何をもたらすか。極限まで突き詰められたセリフ、情景による暗示、役者の演技・存在感による非言語的表現を駆使して主題を表現しようと試みる。

映画版 寝ても覚めても の最も重要なテーマは 他者性 であると述べたが、それをサポートする形で、小さなテーマとでもいうべきモチーフがいくつか存在する。そのうちの一つ、〈誤配〉(発信者の意図とは異なるタイミング・内容のメッセージが相手に届いてしまうこと)についてみてみよう。

危険な男 麦(バク) に恋して 失恋した朝子は 麦 のことが忘れられない。にも関わらず、麦とそっくりな顔をした 亮平 と出会う。亮平に対してどう振る舞えばいいか分からず、結果的に思わせぶりな行動を繰り返す朝子に、亮平が会社の非常階段で言う。
「僕は君が思っているような悪い男やない」
(朝子:私が好きだった 麦 は あなたと正反対の 危険な男 であったのに!)

決定的な両者の認識の齟齬がこの短いやりとりに凝縮されている。
亮平と麦は違う。にも関わらず、いやだからこそ、このやりとりでそのことを認識した朝子は、(一旦は)亮平のプロポーズを受け入れる。
ちなみにというべきか、もちろんというべきか、原作小説にこのシーンはない。

年月が流れ、亮平と朝子が同棲するようになった最初の場面のセリフ
「このカレー、一晩おいて、味がしみたな」
「ラタトゥイユやけどね」
月日による二人の関係性の深まり。にも関わらず依然両者の間に横たわる視界のずれをこれだけのやりとりで見事に暗示している。

意味に満ち満ちているのはセリフだけではない。情景描写もまたメタファーに溢れている。
水辺:川ー海ー川 に戻ってくる物語のドライビングフォース
境界:水辺、非常階段 関係性が変わる場所
過酷さ:震災、難病 他者性の表象

小説版と映画の共通点にも目を向けてみよう。

・全篇に流れる不穏な空気
・物語の基本的な流れ:運命の人 と出会い別れ、運命の人そっくりな顔をした人と出会い、突然あらわれた最初の運命の人の元に走り、最後の最後で踏みとどまり2番目の運命の人を選ぶ(改めて書いてみるとややこしいが実際そうなのだから仕方ない) 

という2点は共通している。だが、その意味するところは大分異なる。

小説版 寝ても覚めても は朝子の一人称小説となっている。読者は朝子の語る主観を通じて物語を享受する。朝子の視線は時折物語の本筋とは関係のない事物を捉える。それは、レーザービームで街を焼いて出来た灰を5800円で売ろう話す姉弟だったり、友達から送られてくるピンクのおっさんの目撃情報だったり、学園祭プロレスにおける飯田による母校の裏切りだったり、欅にへばりついている蟬を煙草の空き箱に入れて胸ポケットに仕舞うおじさんだったり、ほんとうは進藤さんという名前だけどそのほうが似合っているからという理由で権藤さんと呼ばれているというのはほんとうかどうかわからないとか、バイトの女の子がやめればいいんでしょと叫んでいたこととか、水色シャツが金持ちというのはマヤちゃんの勘違いであったとか、見つめあっているようでよく見ると睨み合っている男女だったりする。
これらの描写は物語を通底する不協和音となって、読者を不安にさせ、語り手である朝子に不審感を抱かせる。

映画版のやり方は違う。確かに、ラジオから流される連続殺傷事件の報道 という、小説版に通ずるギミックもあるが、不穏な空気の大半は、隠喩を含んだセリフ と 朝子役:唐田えりかの演技 によっている。唐田えりかは本作で初めて本格的な演技に挑戦したという。そのせいだろうか、全体的に無表情、無感情で、透明感がある と言えば聞こえがいいが、何を考えているのか分からない、物語における空虚な穴 とでも形容したくなる存在感(のなさ)を発揮している。


そっくりの顔をした人に恋をした というモチーフに関しても、小説版と映画版では、意味付けが異なる。

小説版では、前述した 朝子の語りの信頼のおけなさ に加え、東京で再会した春代から、
「違うやん」
と 麦 と 亮平 がそっくりであるという(朝子にとっての)事実を否定されている。
つまり、小説版における、麦 と 亮平 がそっくりであるという設定は、朝子の主観から見た一種の錯覚であり、その主観の変遷=豹変を書いたのが、 小説版 寝ても覚めても ということになる。
小説版で、麦について行くことを決めた朝子がギリギリで踏みとどまる描写を見てみよう。
友人から、懐かしい麦との写真が送られてきて、それを眺めてから麦に視線を移す場面だ。

「新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、私は声を上げていたと思う。
違う。似ていない。この人、亮平じゃない。
隣の座席で眠っている麦を見た。
亮平じゃないやん!この人。
その瞬間、のぞみはトンネルに突入した。暗闇を背景に鏡となった窓ガラスに映ったわたしを、わたしは見た。そのわたしも、写真のわたしとは、違う顔だった。頬や顎の下にできた影は、トンネルの暗い壁と混ざり合っていた。自分がこんな顔をしていたなんて、知らなかった。」

亮平が麦に似ていない のではない。麦が亮平に似ていない というとき、すでに朝子は亮平を選んでいるのだ。理由があるから愛するのではない。すでに私たちは決断を終えていて、後付けで愛を自覚したり、世界の見え方が様変わりすることに驚くのだ!

映画版において、麦 と 亮平 役は東出昌大が一人二役をしている。同じ役者が演じるのだから、誰が見ても同一人物に見える。実際、東京で再会した春代は、映画版では、朝子と付き合っている亮平が、あまりに昔の恋人:麦に似ていることに驚き、朝子を心配する。
つまり、映画版 寝ても覚めても は客観的に見ても顔が瓜二つで、性格が正反対の2人の男性の間で揺れ動く女性の物語なのだ。女性の主観は伏せられる。代わりに、セリフ、情景描写、物語構造等によって、二人の男性の対立する特徴が、物語全体の二項対立という形にまで昇華され繰り返し語られる。

麦 と 亮平 に象徴される二項対立とはどのようなものだろうか。
https://note.mu/geniusorangutan/n/ncec922f75840
で提示されている図式を引用してみよう。

亮平:麦
=日常:非日常
=システム:生活世界
=象徴界:想像界
=言語:言語以前
=<社会>:<世界>
=此岸:彼岸
=現実:夢
=大地:海

宮台真司なら更に、
現実:超越
終わりなき日常:ここではないどこか
を付け加えただろうか。

この図式を踏まえて、映画版で麦について行くと決めた朝子がギリギリで踏みとどまるシーンを見てみよう。

麦と再開した朝子は、麦に問う。
「オーロラを見たん?」
(あなたは 超越 を知っているの?わたしを そこ に連れて行ってくれるの?)
「見たよ。」

福島の 堤防に囲まれた場所 で目覚めた朝子は、麦に誘われるままに、車を降りて、周囲を散策する。そこで、麦は 堤防の向こう(=超越した世界のメタファー)を見たことがない という。それを聞いた朝子は 麦と一緒に行くことはできない という。

そこで描かれているのは、小説版にあるような、主観の変化による世界の豹変 ではない。むしろ、<誤配>により抱いていた、誰かに 向こう側に世界:ここではないどこか に連れて行ってもらえる という幻想の断念。幻滅である。超越世界への憧れを捨て、現実を選ぶ決断を朝子は下したのだ。

主観の変化により、世界が豹変する というモチーフを 映画版が扱っていないわけではない。それは、観客の主観の変化 という形で体験される。どういうことか。
映画では、朝子の真正面からのアングルショットが度々撮られる。いわば、これが定点観測となって、観客に朝子の豹変の錯覚を実感させる。
冒頭、大阪での写真展にて :無表情。 何を考えているかわからない 顔
東京の写真展にて :大阪にいた時と変わらない 顔
福島の堤防にて :観客が見たのは泣きそうな 顔 だろうか。それとも 決意を秘めた睨みつけるような 顔 であろうか。
そして、ラストの亮平と朝子のツーショット。
二人は離れて座っている。二人は互いを見つめ合うでもなく、同じカメラの方向を向いている。画面から二人の細かな表情は窺い知れない。

客観的に見れば、どれも無表情で、かわりのない顔 だったろう。だが、文脈が、言い換えれば、観客が映画とともに積み重ねてきた時間が、朝子の無表情を意味付けし、表情を錯覚させる。
いわば、朝子の無表情は能面のような機能を果たしている。熟練の能の演者は、楽曲にあわせたかすかな顔の傾きによって、面に喜怒哀楽等の様々な表情を宿らせるという。

小説版と映画版の東京での友人関係の違いを見て行くことで、映画版 寝ても覚めても のメインテーマが 朝子の成長 であることを示そう。
映画版 寝ても覚めても の東京での人間関係は、小説版に比べると大幅に圧縮されている。
映画版で出てくるのは、亮平の同僚:串橋耕介と朝子のルームシェアの相手:鈴木マヤの2人だけだ。そのエピソードも原作にはないオリジナルエピソードだ。

お好み焼きパーティーに招かれた耕介は、マヤの演技している映像をみて、拗らせている演劇への感情を爆発させてしまい、マヤの演技を自己満足だ と指摘する。マヤとの会話、亮平の取りなしにより自分の感情に向き合った耕介はマヤに謝罪し成長する。

実際に、このエピソード後の耕介の豹変ぶりは目を見張るばかりだ。それまでのどこか投げやりな態度は鳴りを潜め、英語でのプレゼンを買って出たり、朝子が皿を割ってしまった後も、

形あるものはいずれ壊れる…。さあ、何から手伝おうか。

と言ってのける成長ぶりである。
他者からの影響による意識の変化。これ自体、古くからある図式だ。実際、耕介にせよ朝子の成長にせよ、映画版 寝ても覚めても が提示する成長の図式自体は古典的なものだ。

イザナミの黄泉がえり(古事記)、清濁併せ呑む(中国古典)、悪をなす自由(江藤淳 成熟と喪失)…。
穢れ(非日常)に触れてから現世に戻ることで成長する というモデルは神話の時代から近代に至るまで繰り返し語られてきた。

耕介のエピソードが成長を表現しているとして、なぜ、そのことが、映画全体のテーマにということになるのか。本作の様式美からである。

映画版 寝ても覚めても は、一度軽い探りを入れてから、本題に移るというパターンを徹底している。
いくつか例をあげよう。
小説版では、朝子が亮平と出会ってから付き合うまで特に障害となる出来事は描かれていない。対して、映画では、一度拒まれ、震災の日に再度結ばれる という形をとっている。
麦が朝子を迎えにくるシーンでも、小説版が、麦が迎えにきた最初のコンタクトで朝子は麦について行くが、映画版では、一度は拒み、二度目の誘いに決然として朝子は麦の手をとり、背筋を伸ばして進んで行く。対する亮平はこれまでみせたことのない鬼のような形相で朝子に追いすがる。一旦タメを作って、二度目の機会で劇的なパンチを放つのが本作で濱口監督が執拗に繰り返すパターンである。
思うに、濱口監督は、東京での人間関係をほぼ丸々全部を、 朝子と亮平の成長 のタメに使ったのはなかろうか。

耕介の成長のエピソードはある意味、前時代的である。2010年代において、初対面の人間に対して、自分のトラウマを吐露する人間などいそうにないし、亮平のような人間がいて、取りなしてくれるのも奇跡に近い確率でしか起こりそうにない。(そういえば、マヤが 劇中の映像で演じていた人物も 鳥は、星は なんのためにあるの? その理由を私は知りたい! と独白するような、超越世界を無邪気に信じているような、時代ものの人物造形であった)
それは、逆照射する形で、現代社会を生きる私たちが成長する困難さを炙り出している。

SNS等の発達で、軽く、短いコミニュケーションが促進され、自分の物語を他者に吐露するきっかけが減った。人間関係を選ぶ自由が広がり、他人は、自分にとって不快な異物:成長のきっかけとなる他者 というよりも、空気を読んで快適に過ごして、所属欲求と承認欲求を提供していくれる対象 へのなりがちだ。

自由で便利で快適だけれども、自分はこのままでいいのか、私たちはいつも心の何処かでそう思っているのではないだろうか。
遠くでテロや震災が起こっているニュースを聞きながら、表面上は、平穏に日々を送っている。
でも、どこかで将来の破滅を予感している。
私たちの日常は、 寝ても覚めても の世界観そのものだ。
現代社会における成熟の困難さ。この課題に対する 映画版 寝ても覚めても の答えは力強くシンプルだ。

他人に、他者 としての役割を期待しない。(亮平のような いい人 に甘えない。麦 に どこか に連れていってもらう幻想も抱かない。)
自分の中にいる知らない自分 と 世界の過酷さ に自分を開く。
それが、他人に他者性を取り戻させる契機ともなるのだ。

他者とは、自分ではどうにもならないもの、意識を突き詰めてもコントロールしきれない残りの何かだ。

従来の成長・成熟譚は、そのキッカケとして他人を提示しがちであった。

安全便利快適な現代社会に生きる我々には、自分を不快にしてまで成長をもたらしてくれる他人に出会うことはほとんど期待できそうにない。私たちの快楽原則と市場原理とテクノロジーの進歩が手を結び、 他者 をノイズとしてシステムからあらかじめ除去してくれるからだ。

ノイズを徹底除去した上で、尚残るもの:私たちの背景、内面深くに張り付き、破滅を囁き、成長の触媒となるもの があるとすれば、それは何か。
自分の中の説明できない部分:自分の中の他者性
または
人智を超えた自然の威力:世界の過酷さという他者性(例えば震災のような自然災害、あるいは難病など不条理な運命)
しかないのではないか。

なぜ、朝子が麦を選びながら、亮平の元に戻っていったのか。合理的な説明はなされない。評論家から脚本の不備ではないか?という指摘もなされたと聞く。

ただ、言えることは、朝子の滅茶苦茶な行動によって、亮平と朝子の関係は変わり、

朝子は 亮平に対して許されないことをした、と自覚しつつ、それでも亮平の側に居たい と立場をとった。

亮平は ずっと心のどこかで朝子を失うことを恐れて居た自分と向き合い
朝子を信じない。それでも一緒にいることを許す という 決断 をした。

映画は、脚本の様式美、役者の存在感など、およそ言語的説明以外の手段を総動員して、朝子の行動は必然であるという説得力を出そうとする。おそらく、この映画で語りたいのは、言葉で語れぬ何か なのだ。

朝子と亮平の 成長・決断 が、いいことなのか悪いことなのか私にはわからない。

それでもラストシーン
「汚ったない川やな」
「でも、綺麗」
朝子はそんな世界を祝福するのだ。

映画版 寝ても覚めても は、全編を通じて、セリフ、情景、物語構造にメタファーと反復:映画の享楽 に満ち満ち、古典的な二項対立・成長図式に立脚しながら、震災以降 を生きる私たちの関係性を描き出す、語りえぬものを語ろうとした、最後には主人公が前を向く 希望の物語 である。

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